リサイタルで完璧なオーケストラ・ヴァージョンとしてうたわれた美輪(丸山)明宏の「ヨイトマケの唄」
シャンソン歌手の美輪明宏は1957年にデビュー・シングル「メケ・メケ」をヒットさせてスターになったものの、同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングにあって、その後はマスコミから締め出されて一旦は忘れられた状態になってしまった。 しかし1963年の秋に全曲を自作自演の曲で構成した「丸山明宏リサイタル」で見事にカムバックを飾ると、1965年には「ヨイトマケの唄」をヒットさせて完全復活した。...
View Article丸山明宏(美輪明宏)をスターにした「メケ・メケ」、その革新的な日本語詞
敗戦後の復興期にあった1951年、東京・銀座に開店したデラックス・キャバレーの『銀巴里』は、当時としては眩(まばゆ)いほどに豪華な内装のダンスホールだった。 美輪明宏が1955年にシャンソン喫茶へと衣替えした『銀巴里』で、専属歌手として歌うようになったのは開店から二年目、その当時は21歳で丸山明宏と名乗っていた。...
View Article「シャボン玉ホリデー」のテーマ曲として永く記憶されるザ・ピーナッツの「スターダスト」
「スターダスト」はソングライターで俳優のホーギー・カーマイケルが、1927年に発表したスウィング・ジャズのスタンダード。 ミッチェル・パリッシュにより歌詞がつけられたのが1929年のことで、その後はビング・クロスビーを筆頭に数多のヴォーカリストによっても歌い継がれていった。 フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、ナタリー・コールと、日本でも人気のあったシンガーたちがレパートリーにした。...
View Article「サティスファクション」はキースの40分のいびきと一緒にカセット・テープに録音されていた
ローリング・ストーンズの名前を世界に知らしめた「サティスファクション」の原型は、40分のいびきと一緒にカセット・テープレコーダーで録音されていたという。 キース・リチャーズにはその曲を書いた確かな記憶がなかった。 しかし、夢の中で何かが閃いたような気がした。 そして翌日、テープを聴来直すと、確かにいびきといびきの合間にギターのリフが残っていた。...
View Article追悼 ドクター・ジョン~多様な文化が混じりあったアメリカ南部のソウルフードと名盤『ガンボ』の関係
ガンボという料理はアメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸一帯に広く浸透しているが、ニューオーリンズなどではライブやお祭りの屋台には必ず登場するソウルフードだ。 出汁のよく出たスープに野菜を入れて煮込み、それをライスにかけて食するという基本の定義はあっても、ありあわせの食材でつくった庶民の食べ物なので、定まったレシピというものはない。...
View ArticleDJイーチ・オータキこと大瀧詠一の番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』が始まった!
1975年6月9日、関東のローカル・ラジオ局、「ラジオ関東」で新しい番組が始まった。 『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は普通の人が眠っている時間帯、真夜中の3時から4時にかけてのオンエアだった。 DJはもちろん大瀧詠一、自身が企画を立てて選曲からDJまで務める番組である。 自分が聴いてきたなかから好きな音楽だけをかけて、音楽への愛情をユーモア精神を込めて語る。...
View Article大瀧詠一が後進のために残した貴重な財産~ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
はっぴいえんどのメンバーとしてプロデビューする大瀧詠一は、バッファロー・スプリングフィールドの音楽がきっかけで、細野晴臣と松本隆との出会いがあって1969年の秋にバンドを始めることになった。 そして日本語のロックをなんとか確立しようと試行錯誤を重ねていた頃、アメリカではキャロル・キングが1971年のはじめにアルバム『つづれおり』を発表した。...
View Article追悼・千家和也~14歳にして「青い果実」を唄った山口百恵を新しい表現へと導いた作詞家
1973年9月1日に発売された山口百恵のセカンド・シングル「青い果実」が、一気にベストテンを狙えるほどのヒットになったのは、サビから始まる楽曲の歌詞とリズム、メロディとヴォーカルのマッチングがよく、アイドルものにしてはロックのビート感が感じられたからだろう。 それとともに大きかったのが、控えめで清楚だった本人のイメージとは対照的に、大胆な言葉づかいによる歌詞のインパクトだ。...
View Article追悼・千家和也~15歳にして山口百恵が独自の表現に至った「ひと夏の経験」
デビュー作の「としごろ」から山口百恵のシングルを作曲してきた都倉俊一は、「青い果実」に続いて「禁じられた遊び」、「春風のいたずら」と、作詞家の千家和也とのコンビで順調にヒット曲を出していた。 ところが「青い果実」から半年が過ぎる頃になると、何かがもの足りないと感じるようになったという。 そうした意識は作曲家としての個人的な思いではなく、スタッフたちの間でも共通していたらしい。...
View Article早く前を歩いていたのに遅咲きになり、そこから成功したシンディ・ローパー
シンディ・ローパーは1953年6月22日、ニューヨークのブルックリンに生まれた都会っ子だった。 だが5歳の時に両親が離婚したことで、母親や姉、弟たちと郊外のクィーンズに移り住んだ。 そこからは環境の変化になじめなくなり、いつもどこか場違いな感じでちょっと調子が外れて、まわりから浮いていたので変な視線を浴びてきた。 そうした子供時代から思春期を経て、家を出て自立したのは17歳の時である。...
View Article多くの日本人が忘れていた「忘れないわ」を縁があって歌い継いだシンディ・ローパー
「けっしてあなたのことを忘れない」という意味を持つ日本語の歌に、シンディ・ローパーが最初に出会ったのは1982年のことだった。 ブルーエンジェルというバンドでデビューしたまではよかったが、どこからも認めてもらうことが出来ず、ソロ・デビューするまで雌伏の期間を過ごしていたシンディは、ニューヨークの日本人向けピアノバー「MIHO」で働いていた。...
View Article「混ぜこぜにしちゃえばいいじゃん?」という発想から生まれたシンディ・ローパーの名曲
シンディ・ローパーが1983年に最初のソロ・アルバムを作ったのは、フィラデルフィアの北西部、ポコノ山脈の麓にあるマネイアンクという町にあるスタジオだった。 フィラデルフィアのインディーズ・レーベルの社長だったレニー・ペッツは、メジャーのエピック・レコードに移ったことで、かねてから注目していたシンディとソロ契約を結ぶことにした。...
View Article「メンバーズ・オンリー」っていう歌を聴いたら誰だって泣くはずだ。ボビー・ブルー・ブランドがまた歌っている。
黒人の聴衆に向けた全国巡業、いわゆるチタリン・サーキットの帝王として君臨したシンガーにボビー・ブランド、またの名をボビー・ブルー・ブランドがいる。 ゴスペル、R&B、ジャンプ、バラード、ソウルなど、すべてにブルースが根付いている独特の歌唱は骨太でいながらも、どこか滑らかである。...
View Articleブラジルの貧民街とアメリカの刑務所で撮影されたマイケル・ジャクソンのショート・フィルム
1995年のアルバム『ヒストリー』に収録された「They don’t care about us(彼らは僕らのことなんて考えちゃいない)」は、妥協を許さない表現者としてのマイケル・ジャクソンの姿勢が打ち出されている楽曲だ。 世界の人々が現実に直面している差別や暴力といった問題を、マイケルは他人事ではなく自分のこととして考えて、不条理や不公平を許さないという気持ちを込めて音楽にした。...
View Article美空ひばりが芸の道に生きると、あらためて決意した27歳の夏
美空ひばりはまだ小学生だった9歳のときから豆歌手として舞台に立って歌い、10歳で早くも映画『のど自慢狂時代』に初出演している。 コロムビアから「河童ブギウギ」を歌ってレコードデビューしたのは11歳の時で、続く「悲しき口笛」が大ヒットして少女スターの座についた。...
View Article再起不能と心配された美空ひばりが復帰作「みだれ髪」のレコーディングで見せた女王の矜持
1987年3月のはじめ、作詞家の星野哲郎は常磐線の特急「ひたち3号」に乗って、福島県いわき市にある塩屋岬へ向かった。 長期入院を余儀なくされていたひばりが退院して、病からの復帰第一作となる新作をコロムビア・レコードから頼まれたからだ。 前の年に病に倒れて危機にあった美空ひばりの復帰作をつくるに当たって、作詞を星野に、作曲を船村徹に依頼したのは、コロムビアで長くディレクターを担当していた森啓である。...
View Articleビートルズ来日公演~観客席の少年少女たちには確かに届いていた音楽
ファン待望のビートルズ来日公演の初日。 コンサートは1966年6月30日午後7時35分に始まり、8時5分に終了した。 ビートルズはアンコールもなく、楽屋口に用意された車で武道館を後にした。 終演後、観客席に残った女の子たちはみんな泣いていた。 少年たちはみんな茫然としていた。 全11曲、わずか30分のコンサートの演奏曲目は以下の通りだった。 ①Rock And Roll Music ②She’s...
View Articleローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズの死を悼んだ追憶のハイドパーク
ロンドン中心部に位置するハイド・パークに1969年7月5日、全英中から25万人以上もの若者が集まってきた。 その日はローリング・ストーンズにとって丸2年ぶりとなるコンサートが、フリー・ライブのかたちで予定されていた。 ギタリストであり創設者でもあったブライアン・ジョーンズが脱退し、新たなギタリストにミック・テイラーが加入することになったのでお披露目をかねていた。...
View Articleやがてバンドを去ることになるブライアン・ジョーンズの嗚咽のように聴こえる「ルビー・チューズデイ」
「ルビー・チューズデイ(Ruby Tuesday)」は1967年1月、「夜をぶっとばせ(Let’s Spend The Night Together)」とのダブルA面でシングル盤がリリースされた。 当初はB面の予定だったが、「夜をぶっとばせ」のタイトルと歌詞が性的なことをあからさまに連想させるとして、アメリカのラジオ局では放送禁止、もしくは自粛されることが懸念された。...
View Article第一回レコード大賞を受賞した水原弘が放った言葉「レコード大賞? なんだい、それ」
1959年12月16日、デビュー曲の「黒い花びら」がレコード大賞に選ばれたという知らせを聞いた歌手、水原弘が「レコード大賞? なんだい、それ」と言ったのは有名な話だ。 ジャズ界のスターで演奏旅行中に公演地の名古屋にいた作曲者の中村八大もまた、「おめでとうと言われても何のことだかわからなかった」という。 第1回日本レコード大賞が始まったとき、そこにはまだメリットも権威もなかった。...
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