<音楽史のレジェンド>日本語のロックをバックビートでうたった南正人のアルバム『回帰線』
2021年1月7日の夜、シンガーソングライターの南正人が横浜市内のライヴハウス「THUMBS UP」で、本番中に意識を失って亡くなったというニュースが、音楽関係者の間をかけめぐった。 プロとしての音楽活動が50年を超えていたレジェンドは、享年76にして帰らぬひとになったのである。 そのことをぼくが知ったのは、湯川れいこさんが投降したTwitterからだった。...
View Article浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」
1975年の日本の音楽シーンでは、ユーミンこと松任谷(荒井)由実がシングルの「ルージュの伝言」を2月20日に発表した。 それを契機にマスコミで次第に「ニューミュージック」という言葉が使われるようになり、それにともなって新しい潮流が生まれていく。...
View Article伝説のロック番組『ヤング・ミュージック・ショー』に残されたデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」
デヴィッド・ボウイの来日コンサートが1978年12月12日、東京の渋谷区神南にあるNHKホールで行われた。 その日は12月6日の大阪厚生年金会館から始まった日本ツアーにおける最終日であるだけでなく、その年の3月29日にアメリカのサンディエゴを皮切りに始まり、北米から欧州、豪州をまわって9か月にも及んだワールド・ツアーの最終公演でもあった。...
View Article歌でつながっているアメリカ合衆国で唄いつがれるスティーブン・フォスターの「故郷の人々」
アメリカ合衆国は、歌でつながっている国だと言ってもいい。 市や町や地域のコミュニティを構成する人々は多種多様だ。 それぞれのコミュニティにとってのアメリカがあり、そこには人々に必要とされる歌がある。 人々を互いに結びつけてきた歌が、コミュニティで唄いつがれて今日に生きている。...
View Articleフォスターが書いたアメリカに伝わる究極の哀歌が21世紀になって歌われ始めたのは何故か?
ここ最近になって世界でも日本でも、さまざまなシンガーによって歌われているのが、「ハード・タイムス(Hard Times Comes Again No More)」である。 18世紀にスティーブン・フォスターが書いた歌を、ボブ・ディランがアルバムに収録したのは1992年のことだ。 永遠に 私たちの耳に鳴り響く歌がある ああ、つらい時代なんてもう二度と来ないで...
View Article浅川マキが初コンサートの前夜、寺山修司に唄えないと抗議した「ロング・グッド・バイ」
浅川マキが初のワンマン公演を行ったのは、1968年12月13日から15日までの3日間だった。 場所は「アンダーグラウンド蠍座」。 前衛芸術とカウンターカルチャーの発信地だった映画館「アートシアター新宿文化」の地下作られた、客席が90席の小劇場だ。 構成と演出を手がけるのはアングラ劇団の「天井桟敷」を主宰する寺山修司で、独り語りの詩がところどころで読まれるリサイタルである。...
View Article寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”①浅川マキの世界「かもめ」
浅川マキが2010年に突然のように亡くなった後、音楽プロデューサーの寺本幸司はCDのライナーノーツでこう述べている。 蠍(さそり)座で、寺山修司構成演出で、浅川マキ公演をやった。 毎夜10時開演というライブで、かなりの冒険で心配だった。 でも、蓋を開けたら、ドアが閉まらないほどの連日満員で、成功した公演となった。 (「Long Good-bye to MAKI」ライナーノーツ)...
View Article16歳にしてひとつの到達点にまで至った山口百恵のバラード「冬の色」
1974年の夏に「ひと夏の経験」が大ヒットしてからの山口百恵は、歌手としてだけではなく芸能活動全般において、あきらかに勢いがついてきた。 9月に新曲の「ちっぽけな感傷」を発表すると、10月4日からはTBSテレビのドラマ「赤い迷路(赤いシリーズ第1作)」の放送が始まった。...
View Article歌手としての人生が変わっていくきっかけになった山口百恵と「涙のシークレットラヴ」の出会い
1976年の夏に大ヒットした山口百恵の「横須賀ストーリー」は、もともとは、4月に出す予定のアルバム『17才のテーマ』のために作られた楽曲だという。 しかし素晴らしい出来栄えに驚いた制作スタッフたちがアルバム収録するのではなく、6月のシングル曲にしようと決めたことによって、彼女の歌手としての人生が変わっていくことになる。...
View Article「ちっぽけな感傷」から見えてきた山口百恵がロックを受けとめる能力
1974年に「ひと夏の経験」が発表されると、過激な歌詞に対するマスメディアからの批判がふたたび激しさを増した。 しかし15歳になった山口百恵はキワモノだと見下されたりしても萎縮することなく、年ごろの女性の微妙な心理を自分の中でひとつひとつ確認しながら、与えられた楽曲をていねいに歌うことで成長していった。...
View Article引退する山口百恵に提供された「Crazy Love」と、井上陽水がカヴァーしたポール・アンカの「クレイジーラブ」
山口百恵は人気絶頂だった1979年に自分の強い意志で引退を決意すると、芸能界には一切の未練を残さず、市井の生活者として静かに生きていく道を選んだ。 1980年10月5日に行われた日本武道館でのファイナルコンサートが、ファンの前に見せた最後の姿になった。 彼女はこのとき、まだ21歳だった。 ラスト・オリジナル・アルバム『This is my trial』が発売されたのは、引退後の10月22日である。...
View Article19歳の山口百恵が「私自身に近いところで歌が呼吸していた」と書いた「プレイバックPartⅡ」
山口百恵が所属するホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手がけていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、3枚目のシングル「禁じられた遊び」からだった。 そして5枚目のシングル「ひと夏の経験」は1974年6月に発売されると、ヒットチャートで3位まで上昇して初のベストテン入りとなった。...
View Article母のブルースをポップスに昇華させたシンガー・ソングライターの宇多田ヒカル
「歌手は一流でなければ嫌、私は自分を取り戻すために、英語の勉強から始めます」 27歳で歌手を引退することを決めていた藤圭子は、こんな率直なコメントを残して1979年にニューヨークへ渡った。(注1) やがてニューヨークに住む日本人の宇多田照實と出会い、結婚して長女の光が誕生したのは1983年のことだ。...
View Article追悼・青山ミチ~「亜麻色の髪の乙女」としてよみがえった「風吹く丘で」
2017年2月8日の朝、音楽評論家で作詞家でもある湯川れい子さんが、自身のツイッターでこうつぶやいた。 今から青山葬儀場で、石坂敬一さんのお別れ会です。そこに今朝のYahooで、「涙の太陽」を歌った青山ミチさんが亡くなったと言うニュースが入って来ました。エミー・ジャクソンが英語で歌った曲を、日本語で歌いたいと言うことで、私が英語で書いた曲の日本語詞を作るきっかけとなった方でした。...
View Article青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」
青山ミチという歌手がいた。 アメリカの影を背負った生まれで、才能はあったが不器用で、行動が危なっかしい少女歌手だった。 わずか13歳で和製ポップスでデビューしたがヒットに恵まれず、「ミッチー音頭」などで注目されたが、いつしか暗い方向へと流されていった。 そんななかで唯一、賛美歌のような「叱らないで」が1968年に少しだけヒットした。 ●...
View Articleジョージ・マーティンにプロデュースを断られたことから始まった、ビリー・ジョエルの快進撃
1949年5月9日にニューヨークのブロンクスに生まれたビリー・ジョエルは、ピアニストでもあったドイツ系ユダヤ人の父親の影響から、4才でピアノを習い始めてクラシック音楽を学んでいたが、1964年の初頭に出会ったビートルズの音楽に大きな衝撃を受けた。 ビートルズを聴いたとたん、『これだ!』って思った。『そうさ、僕にだってできる。とにかく、やってみよう』って!...
View Article日本語のタイトルも素晴らしかったビリー・ジョエルの「素顔のままで」
いまではラブ・ソングのスタンダードとなった「Just The Way You Are(素顔のままで)」だが、プロデューサーのフィル・ラモーンとの出逢いがなかったならば、日の目を見ることがなかったという可能性が高い。 デビュー以来、一貫してロック・アーティストとしてのイメージにこだわってきたビリー・ジョエルは、この曲が甘すぎると思ってアルバムに収録することに躊躇していた。...
View Articleどんとの27歳~絶頂の日に起こった転落事故
どんと(久富隆司)は1962年8月5日、岐阜県大垣市で生まれている。 小学生のどんとはテレビの歌番組を見るのが一番好きで、1969年から70年にかけて始まった歌謡曲の黄金時代を体験したことで、歌をうたうことの喜びを知った。 尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が発売になったのは1971年3月5日、ヒットしたのはその年の春から夏にかけてのことだ。...
View Article追悼・橋本治~仮面をつけることを知らない山口百恵によって「ひと夏の経験」で表明されたもの
1974年の夏に「ひと夏の経験」が発表されると、オリコンのチャートでは最高3位になり、デビュー1年目にして山口百恵にとって最大のヒットとなった。 その一方で「歌の意味が分かっているのか」「歌が下品だ」「不良少女の歌」などいう非難、あるいは苦情や批判がマスメディアに取り上げられて、バッシング的な扱いも見られるようになった。...
View Articleアメリカ修行中に恩師の力道山が刺されて死んだという知らせを受け取ったジャイアント馬場の孤独を癒やした歌
ジャイアント馬場が力道山の死を聞かされたのは、1963年の12月の中旬のことだった。 アメリカに長期滞在して2度目の武者修行中だった馬場は、その頃からテロの恐怖というのを身近に肌で感じていたという。 それは実際にケネディ大統領暗殺という、歴史的な大事件が11月22日に起こったことで、アメリカ中が騒然としていたからである。...
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