「恋するふたり」の前から始まっていたニック・ロウとジョニー・キャッシュの物語
サンフランシスコでクラッシュのジョー・ストラマーにカーリーン・カーターを紹介した翌年、ニック・ロウは彼女と結婚することになった。 ニックは1979年当時、ロックパイルのメンバーたちと共に、自作の「恋するふたり(Cruel To Be Kind)」をレコーディングしている。 そして6月9日発売のセカンド・ソロ・アルバム『レイバー・オブ・ラスト(Labour of Lust)』の一曲目に収録した。...
View Article「狼なんか怖くない」~阿久悠がピンク・レディーの「S・O・S」から発展させて書いた石野真子のデビュー曲
伝説のオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場した石野真子は高得点で合格、1978年3月25日に「狼なんか怖くない」でデビューすることになった。 初代のディレクターを担当したビクター・レコードの谷田郷士は、芦屋育ちのお嬢さんだった少女に会ったときの印象をこう語っている。...
View Articleデビュー・シングルで「宝くじは買わない」と唄ったのに、買っている姿を加奈崎芳太郎に見られた忌野清志郎
RCサクセションは1972年に「ぼくの好きな先生」が少しヒットしただけで、それ以降はまったく売れない時期が数年間も続いて不遇だった。 しかし、1977年に生涯のパートナーになる女性と出会ったことで、忌野清志郎はこのまま売れない状態が続けば、未来に展望が開けないだろうと判断する。 そしてバンドが成功する可能性について、真剣に模索し始めていったのである。...
View Articleキング・オブ・ロックンロール・フォトグラファー、写真家ジム・マーシャルの哲学
ビートルズが最後のコンサートを行なったのは1966年8月29日、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークだった。 その模様をカメラに記録したのが、ジム・マーシャルだ。ジムはビートルズ最後のコンサートでバック・ステージに入ることを許可された、ただ一人の写真家だった。...
View Article「涙そうそう」の誕生~出会いとは偶然ではなく、運命が時を選んで、会うべき人に会わせてくれている
BEGINは沖縄県石垣島出身の幼ななじみの同級生が組んだバンドで、東京で結成された当初はロックを演奏していた。1989年にTBS系のオーディション番組「イカすバンド天国」を経て、オリジナル曲「恋しくて」でデビューしたのは1990年だ。...
View Article主人公のナミとして吐きすてるように歌ったという梶芽衣子の「怨み節」~〈吐きすて〉の歌の系譜⑨
女優の梶芽衣子が歌って代表曲となった「怨み節」は、1972年に製作された映画『女囚701号 さそり』の劇中歌としてつくられた。 しかし8月25日に映画が公開されたときには、まだレコード化されていなかった。 第1作の『女囚701号 さそり』に出演の依頼があった時、梶芽衣子は「女囚なんか嫌よ」と台本を返したという。...
View Articleキャンディーズに提供した「やさしい悪魔」を直ちにセルフ・カヴァーした吉田拓郎
1977年4月21日に発売になったLP『キャンディーズ 1 1/2〜やさしい悪魔〜』の帯には、「拓郎、ビートルズからラン・スー・ミキまで 話題の特別企画」というコピーがついていた。 3月1日にシングル発売されてヒットした吉田拓郎の作曲による「やさしい悪魔」のほか、ビートルズなど洋楽のカヴァー曲、メンバーが作詞・作曲に挑戦した楽曲が入った内容だったからである。...
View Article追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃
ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者だった。 テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月。18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。...
View Articleテンプターズの「エメラルドの伝説」が誕生したことで頂点に達するグループ・サウンズのブーム
1968年3月に発売した第2弾シングル「神様お願い」のヒットによって、テンプターズは先行していたタイガースのライバル的なポジションを得て、熱狂的なグループ・サウンズのブームの先頭に並んだ。 そして圧倒的な人気だったタイガースの沢田研二(ジュリー)に対抗できる、アイドル的なスターになったのがヴォーカルの萩原健一、ショーケンだった。...
View Article追悼・萩原健一~「こんな親友を持てたこと、幸せに思うよ」と本人に語っていた井上堯之
萩原健一(ショーケン)が俳優として圧倒的な存在感を放つようになった後で、シンガーとしての活動を復活させたのは、ソロ・アルバム『惚れた』をリリースした1975年のことだった。 そのアルバムには脚本家の倉本聰が気に入ってテレビドラマ『前略おふくろ様』のモチーフに使う「前略おふくろ」や、フォーク・シンガー河島英五の「酒と泪と男と女」などが収録されていた。...
View Article愚か者であることが許されない時代~ローリング・ストーンズの「愚か者の涙」と萩原健一の「愚か者よ」
映画評論家でアメリカ在住の町山智浩氏が4月2日、TBSラジオ『たまむすび』に出演して亡くなった萩原健一について語っていた。 そのときの発言の内容に、「まったくその通り!」と何度も深くうなずかせられた。 特に「僕の世代にとっての萩原さんっていうのは、心優しくて弱虫で泣き虫の甘えっ子のイメージなんですよ」というところで、「そうだったなあ」という懐かしい思いがよみがえってきた。...
View Article星野源やチャラン・ポ・ランタンたちが「スーダラ節」を歌い継ぐことで何かが変わるのか?
2011年7月30日、フジロック二日目のリハーサルが始まったアヴァロン・ステージでは、前日に5回目の出演を果たしたSAKEROCKの星野源が、ソロでライブを行うことになっていた。 サウンドチェックのためにステージに登場した星野源は「スーダラ節」を始めると、「リハだけどご一緒に!」と観客にも声をかけた。 そこからは「もっと歌おう!」との声で、本番前なのに観客との間で大合唱が繰り広げられたのである。...
View Article音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツと、スター街道を駆け抜けた植木等の”変な歌”①「スーダラ節」
1960年代初頭からテレビで人気が上昇していたクレイジーキャッツだが、最初の爆発は植木等の歌った「スーダラ節」の大ヒットから始まった。 そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていったのである。...
View Articleクレージーキャッツの”変な歌”②PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌
青島幸男が書いた「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」によると、「スーダラ節」でレコードを出そうとしたときに、ふたつの選択肢があったという。 プロデューサーの渡邊晋との打ち合わせの席では当初、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから常套的に”良い歌を作る”という案と、はなから割りきって”売れる歌を作る”という案が検討された。 そして選ばれたのは当然ながら、”売れる歌を作る”のほうだった。...
View Article革命的なブームを巻き起こしたクレージーキャッツの”変な歌”③「無責任一代男」
1961年の「スーダラ節」から始まったヒット曲によって植木等ブームが到来し、クレージーキャッツが疾風怒濤の快進撃を始めた1962年、記念すべき映画『日本無責任時代』が製作された。 その主題歌として作られたのが「無責任一代男」である。 この時、主題歌に先行して映画の脚本を書いていたのは、東宝で企画部の社員として働いていた田波靖男だ。...
View Article痛快でスピーディなクレージーキャッツの”変な歌”④植木等の「ハイそれまでョ」
クレージーキャッツの3枚目のシングルは植木等の二枚目風キャラクターを活かして、ムード歌謡風のゆったりした歌い出しで始まる。 もともとジャズ・ギタリストで、ジャズ・ヴォーカルも学んだ本格派だから声がよく響く。 ところが伸びやかでつやのある美声によるラブソングは、途中でブレイクした途端に歌詞が急展開、曲調もガラリと変わってしまう。...
View Articleクレージーキャッツの”変な歌”⑤大瀧詠一が三拍子どころか十拍子も揃っているとベストワンに推す「ホンダラ行進曲」
クレージーキャッツのテレビ番組の構成作家だった青島幸男は、植木等が歌ってヒットした一連のクレージー・ソングのほとんど全てを作詞しているが、著書「わかっちゃいるけど‥‥シャボン玉の頃」のなかで「ホンダラ行進曲」について、”実は一番好きな歌”だということを明かしている。...
View Article岡林信康の「山谷ブルース」を聞いた板前見習いの若者が起こした行動
1960年代の半ば過ぎから後期にかけて、日本でもフォーク・ムーブメントという現象が起こった。 ギターを弾いていくつかのコードさえ押さえられれば、自分の言葉を綴った歌という形にして、社会に対する疑問や怒りを意思表示して伝えることを知った若者たちが、日本中のあちらこちらでギターを抱えて歌い始めたのだ。...
View Article無名だった三上寛が大観衆の喝采を浴びた「夢は夜ひらく」~第3回全日本フォークジャンボリー
岐阜県の椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回全日本フォークジャンボリーは、1971年8月7日の昼から9日未明まで行われた。 そのなかで後世に語り継がれたのは、吉田拓郎(当時はよしだたくろう)が歌った「人間なんて」と、出演予定に入っていなかった無名の三上寛が体を張って見せたライブ・パフォーマンスだった。...
View Article『戦場のメリークリスマス』で俳優に起用された坂本龍一、その音楽を認めた英国の映画プロデューサー
2013年に亡くなった映画監督の大島渚について、当時のニュースは告別式の最後に弔辞を読んだ坂本龍一が、「あなたは私のヒーローでした」と語ったと報じていた。...
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