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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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エイプリル・フールから独立した小坂忠の「しらけちまうぜ」は日本語ソウル・ミュージックの原点

小坂忠が1968年に「ザ・フローラル」というバンドのヴォーカルとしてデビューした頃、日本にはまだ確たるロックシーンは存在していなかった。 加熱するGSブームの渦中に売り出されたザ・フローラルだったが、1967年から始まったグループサウンズの全盛期は短く、翌年には早くも下降気味になってしまった。...

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GSの「ザ・フローラル」に参加した後に「エイプリル・フール」解散を経て「はっぴいえんど」へ至る道

1968年2月に結成されたGSの「ザ・フローラル」は、日本のモンキーズ・ファンクラブが公募したバンドだった。彼らが所属するミュージカラー・レコードという会社から、8月にデビュー曲「涙は花びら」が発売された。...

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R&Bチャート1位から25年、映画によって再びヒットしたベン・E・キング の「スタンド・バイ・ミー」

ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー(Stand By Me)」は、1961年5月29日のビルボード誌R&Bチャートで1位になり、3週間後には全米チャートでも4位まで上昇した。 この曲が生まれたのは1961年という時代背景に目を向けると、黒人たちが「我々にも公平な権利を」と訴えた公民権運動の萌芽を、どこかに感じさせる作品であることに気づくかもしれない。...

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井上陽水の「断絶」~歌詞にこだわったプロデューサーの多賀英典が見出したのは人間の優しさだった

営業マンの出身だったポリドール・レコードの多賀英典は、まだ制作を手掛けてから間もない時期だったが、テーマの選び方や歌詞について、ディレクターとしての立場から井上陽水に意見や注文をぶつけてきた。 歌詞の完成度を高めるようにと厳しく要求されたことは、スタッフにも本人とっても、意外なことだったらしい。...

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ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」

中森明菜のセカンド・シングルとして「少女A」が世に出て注目を集めたのは、1982年7月28日のことだった。 広告業界でコピーライターとして働きながら作詞の仕事を始めた売野雅勇は、まだ駆け出しの身であったが、アンテナ感度の鋭い大瀧詠一などから注目を集めていた。 同じ年の2月に発売された『機動戦士ガンダムⅢ』...

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中森明菜によって新たな生命を吹き込まれた加藤登紀子の「難破船」

「難破船」は加藤登紀子が1984年12月1日にリリースしたアルバム『最後のダンスパーティー』の収録曲で、発表当時はアナログ盤のA面2曲目であった。 40歳を迎えたその年、加藤登紀子は歌手としての現在と将来について、人知れず悩んでいたという。 もう若くはないが、熟してもいない。守りに入ったら後退あるのみ。 そんな不安もあった。だからこそなのか、この一年はいろんなことにやたら挑戦した一年だった。...

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越路吹雪、美輪明宏、大竹しのぶ、それぞれが定番にしたエディット・ピアフの「愛の讃歌」

シャンソンの名曲として世界中で親しまれている「愛の讃歌」は、越路吹雪の歌によって日本でも1950年代前半から60年代にかけて、広く親しまれて浸透していった。 ところでエディット・ピアフが歌った原詞では、『愛のためなら宝物を盗んだり、国や友を裏切り、笑われたって何でもする』と、壮絶なまでの愛が描かれていた。 しかしそのまま日本語にしたのでは、当時の日本人の感覚にはそぐわないところがあった。...

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日本で最初のシンガー・ソングライター美輪明宏が歌った「愛の讃歌」

「メケ・メケ」を日本語でカバーした丸山明宏は、1957年にシャンソンを歌い上げる美貌の青年として登場した。メディアにたびたび取り上げられた22歳の丸山明宏は、作家の三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛したこともあって、一躍マスコミの寵児となった。 だがそんなブームは、わずか1年ほどで沈静化してしまう。自身が同性愛者である事を公表したことへのバッシングなどもあって、人気は急落してしまったのである。...

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井上堯之が作曲家としてスタートしたのは萩原健一が奮い立たせてくれたからだった

デビュー51年目を迎えた永遠のロッカー、萩原健一(ショーケン)のツアーがビルボードライブ東京で初日を迎えたのは2018年5月2日のことだ。 第1回目の公演が始まる前から、会場は静かな熱気に包まれていた。 そこに流れるBGMはすべてボブ・マーリィの曲で統一されていた。 そして「ノー・ウーマン、ノー・クライ」が終わったのをきっかけに場内が暗くなった。...

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新生RCサクセションを率いる忌野清志郎27歳、 「よォーこそ!」で幕を開けた新時代 

1978年4月2日、忌野清志郎は27歳になった。 高校時代にバンドを結成してから10年を迎えたRCサクセションはその頃、ヒット曲もなければ仕事もないという無作為の日々が2年以上も続いていた。 後に暗黒期と呼ばれる時期にあたるが、もともとアコースティック・トリオだったバンドは、その頃からエレクトリック志向を打ち出し始めていく。...

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「できることなら、この胸を切り裂いて、どんな気持ちで歌を作ったのか、見せてやりたいよ」忌野清志郎

バリー・マクガイアの「明日なき世界」で始まり、ジョン・レノンの「イマジン」で終わる洋楽のカバー・アルバム『COVERS』は、RCサクセションと契約していたレコード会社の東芝EMIから1988年8月6日、世界で最初の原子爆弾によって多くの人の生命が奪われた広島の平和記念日に合わせて発売される予定になっていた。...

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忌野清志郎がNHKホールで行われた『どんと 紅白』のトリで歌った「孤独な詩人」

どんとがハワイで急逝したのは2000年の1月28日、まだ37歳という若さであった。 訃報を聞いた忌野清志郎はレギュラーで書いていた雑誌に、こんな追悼文を寄せている。(注1) 雰囲気のあるいい奴だった。俺の音楽の理解者だった。 もっとたくさん会えば良かったが今はもう遠い。今年も年賀状が届いたばかりだというのに…。 さようなら、どんと。安らかに眠ってくれ。...

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KISSの武道館公演をNHKテレビの『ヤング・ミュージック・ショー』で見て感激した忌野清志郎の決断

高校生でバンドを作った1968年から活動をともにしてきたオリジナル・メンバーの破廉ケンチが、うつ病でギターが弾けなくなってメンバーから外れたのは、結成から10年目を迎えた1977年の夏だった。 そのためにRCサクセションはアコースティックのトリオからロック・バンドに変貌することを目指して、2年近い紆余曲折の期間を経たにもかかわらず、結成以来のメンバーが忌野清志郎と小林和生だけになってしまった。...

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美輪明宏の表現でアングラという枠を超えてスタンダードになった寺山修司作品『毛皮のマリー』

劇団・天井桟敷が美輪明宏(当時は丸山明宏)を主演に迎えて1967年4月に上演した『青森県のせむし男』は、5月になってすぐに映画館「アートシアター新宿文化」でアンコール上演された。 映画の上映が終わった夜の9時半から舞台の準備に入り、10時過ぎに開場して観客が入りきったところで、芝居が始まるという方式だった。だから終演は夜中の12時を回ることもあったが、そんな悪条件も動員にはまったく関係がなかった。...

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寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”①浅川マキの世界「かもめ」

浅川マキが2010年に突然のように亡くなった後、音楽プロデューサーの寺本幸司はCDのライナーノーツでこう述べている。 蠍(さそり)座で、寺山修司構成演出で、浅川マキ公演をやった。 毎夜10時開演というライブで、かなりの冒険で心配だった。 でも、蓋を開けたら、ドアが閉まらないほどの連日満員で、成功した公演となった。 (「Long Good-bye to MAKI」ライナーノーツ)...

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寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”②カルメン・マキ「時には母のない子のように」

2015年10月24日、カルメン・マキがNHK-BSプレミアム「ザ・フォーク・ソング~青春のうた」に出演して、「戦争は知らない」と「時には母のない子のように」の2曲をうたった。 曲と曲の間には亡き寺山修司のことを、こんなふうに語っていた。...

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忌野清志郎が「ホリプロ三羽ガラス」だった頃に初めて経験した”全国ツアーみたいなもの”

「ぼくの好きな〜」がヒットする前後、オレたちは初めて全国ツアーみたいなものを経験したよ。楽しかった。~忌野清志郎 1971年に「月光仮面」をヒットさせたモップスが、井上陽水とRCサクセションを前座に連れて全国をコンサートで回ったのは、その年の秋から翌年にかけてのことだった。...

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デビュー・シングルで「宝くじは買わない」と唄ったのに、買っている姿を加奈崎芳太郎に見られた忌野清志郎

RCサクセションは1972年に「ぼくの好きな先生」が少しヒットしただけで、それ以降はまったく売れない時期が数年間も続いて不遇だった。 しかし、1977年に生涯のパートナーになる女性と出会ったことで、忌野清志郎はこのまま売れない状態が続けば、未来に展望が開けないだろうと判断する。 そしてバンドが成功する可能性について、真剣に模索し始めていったのである。...

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井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」

井上陽水の「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面としてであった。 そしてアナログ・レコードの時代の日本において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことによって、多くの音楽ファンに親しまれることにもなった。...

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忌野清志郎さんに「スローバラード」は日本のロックの歴史に残る傑作だと思いますと言った日のこと

2016年4月、新聞のニュースを読んでいて、忌野清志郎さんと初めて会った日のことを思い出した。 ・「忌野さんの創作ノート発見 30曲分、自信と不安抱く」(日本経済新聞)...

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