「3月11日はやはり東日本大震災が起きた日として自分の中に在ります」と語るのは、歌謡コーラスグループ「純烈」を結成してリーダーとなり、プロデューサー役を務めている酒井一圭である。
彼が結成した純烈は3年に及ぶ準備と助走の期間を経て、2010年6月にメジャー・デビューを果たしている。
しかし「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」シリーズなどで子どもたちのヒーローを演じた俳優を中心に結成された純烈は、活動を始めた時点で平均年齢が30代を超えていた。
大きなバックボーンもなく始めた音楽活動だったので、仕事は少ないし知名度もなかなか上がらず、先行きを考えると道は険しいものだった。
そんななかで2枚目のシングルを出す予定だったところへ、東日本大震災が発生して予定が立たなくなってしまう。
それによる自粛ムードとともに、彼らの行く手には暗雲が立ち込めていくことになった。
純烈のメンバーたちはテレビやネット上で伝えられる震災の被害の凄まじさと、その爪痕を見ることで被災地の現状を想像しながら、一人ひとりが様々なことを考えていた。
いちはやく公式ブログ上で酒井はリーダーの立場から、「希望」という言葉を口にしていた。
あの瞬間、止まってくれ!止まれ!(もうダメか)と、次男を抱きしめながら、駅ビルの屋上で覚悟しました。
避雷針とアンテナの甲高い金属音、周囲の高層マンションと駅ビルは回るように揺れ、しばらく立ち上がることもできず、携帯を取り出しても、上手くタップできなかった。
あれから毎日奔走しております。
不安感、恐怖心、無力感、使命感、正義感、すべて抱えて「希望」に向かって走っております。
そして一週間ぶりに全員が集まって地震のことから、今後の活動をどうするのかという基本方針や、シングルのリリース計画などを長い時間かけて話し合った。
メンバーで最年長の小田井涼平が、そのことをブログにこう記していた。
こんな状況でもいたって前向きに意見を交換していく中で、やっとこさ本来の自分を取り戻すことが出来た感じがして、地震の日以来やっと地に足をつけることが出来た気がしました。
木曜日のメルマガにも書いたのですが、個人で、グループで色々考えて、アイデアを出し合って今後も”純烈”は活動をしていきます。
今後の活動が皆様にも、自分達にも有意義なものであるように頑張ります。
最後に言葉だけで本当に申し訳ないのですが、まだまだ寒い日が続きますから被災地の皆様、少しでも暖かくして頑張って下さい。
物資がない中、無責任かもしれませんが本当に本当に頑張って下さい。
涼平
3月19日午後6時45分、栃木県鹿沼市にあるフォレストアリーナ(鹿沼総合体育館)には、福島県相馬郡飯舘村から避難してきた314人が到着した。
そして翌日の午前10時に医師会および薬剤師会によって、避難者の健診所を開設されている。
午後6時55分には避難者の第2陣として約197人が到着し、約500人以上の人たちによる避難所生活が始まった。
純烈はそこへ呼ばれて慰問ライブを行うことになった。
酒井はその話を引き受けた時から、「そういう人たちを目の当たりにしてぼくらが通用するのか、そこでほんとうに歌うことができるのか」と考えて、グループを続けるかどうかを問われる重要な分岐点になると感じていた。
現地に到着すると彼らを呼んでくれたNPOの担当者から開口一番、「絶対に、頑張って下さいって言わないで」と、泣きそうな顔で告げられたという。
会場として用意された柔道場に行って自分たちでスピーカーなどをセッティングし、椅子を並べていざショーを始めようとしても、客は誰もやって来なかった。
そこで避難所を回ってチラシを配りながら、「昭和歌謡を、歌をやっています、よかったら聴きに来て下さい」と、一人一人に声をかけて歩いた。
やがてたった一人だけだったが、客が来たのでショーを始めることにした。
そして1曲目に選んだ黒沢明とロス・プリモスのカヴァー曲、「ラブユー東京」を歌い始めた。
七色の虹が 消えてしまったの
シャボン玉のような あたしの涙
あなただけが 生き甲斐なの 忘れられない
ラブユー ラブユー 涙の東京
ところが2コーラス目に入ったところで、たった一人の客は立ち上がって会場から出ていってしまった。
「あー、やっぱり、無理か‥‥」と思いながら、それでも歌い続けていると出ていった人が戻ってきた。
しかも何人もの人たちを連れてであったことに、純烈のメンバーはみんな頭を垂れたのだった。
そこからはまわりの迷惑にならないようにと、なるべく小さな音にして盛り上がり過ぎに気をつけながら、ショーは予定の時間を迎えて終了した。
ところがそのとき、メンバーの小田井に抱きかかえられていた幼い子どもが、一向に離れようとしなかったのだという。
酒井がこう語ってくれた。
普通だったらお母さんが「もうこっち来なさい」と声をかけるんでしょうけど、お母さんもずーっと小田井さんと子どものことを見つめているだけなんです。
たぶんですが、安否のわからないだんなさんのこと、だんなさんが子どもを抱いている姿と小田井さんが、重なっていたのかなと思います。
とにかく周囲は暗くなってくるんですが、小田井さんもお母さんもずーっとそのままなので、東京へ帰らなければならないのに、ぼくらもそのままじっとしていました。
それについては小田井も翌日、こんな言葉をブログに残している。
ということで、日付が変わってしまいましたが、金曜日担当の涼平です。
昨日は遅くまでメンバーと一緒に行動しておりまして、かなり充実した‥‥それでいて今後の純烈を大きく左右する一日でした。
酒井もそれから数時間後、力強い決意を宣言している。
ダメかもしれないと思った震災の瞬間から生き長らえた。
ならばやれるだけやるしかないなと腹を括りました。
36歳を迎える日本男児として。
俳優や歌手以前の自分自身が暴れるんです。
人を喜ばせたり、驚かせたり、
感動させる為にこの職業を選んだんです。
純烈は、唄うしかない。
やらねば。
メンバー全員、そう思っています。
キャンペーンなどもふくめて延期になっていた新曲の「キサスキサス東京」は、7月に発売されたもののヒットには至らなかった。
そして2枚のシングルで結果を残せなかったことから、契約していたレコード会社には見切りをつけられることにもなった。
それでも彼らはそのとき、カップリング曲として新たに「ひとりじゃないから」という歌をつくっている。
純烈はそこで「元気になるムード歌謡」という道を目指し始めて、避難所や老人介護施設を積極的に慰問することで、スーパー銭湯や各地の祭などへと活動の場を拡げていく。
地道な活動で支持者を少しずつ増やしながら年に1枚ずつシングルを出して、実力をたくわえていった純烈は大震災から6年後に、いよいよ蕾から花を咲かせ始めることになる。
2017年に入ると同時に音楽シーンに新風を吹かせるグループとして、マスコミにたびたび取り上げられたことで、急速にファン層を拡大していった。
2018年の3月11日の早朝、酒井はブログにこんな文章を投稿している。
純烈の目的と希望、その1つが客席で歌うこと。お客さんと握手すること。
握手した瞬間、演者もお客さんも垣根無しで、お互いが今を活き活きと、生きている同志エールだったり、励ましだったり、労いだったり、気持ちをスッと交換する。
つまり愛だね、これは。
キーワードにしていた「夢は紅白!親孝行!」の次に、彼らが目指すのはどこなのだろうか。
(注)本コラムは2018年3月11日に公開したものを、改訂した上で改題したものです。
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