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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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知られざる名曲「丘の上のエンジェル」①~それはザ・ゴールデン・カップスのデビューから始まった~

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1960年代後半に巻き起こったGSブームではその数百ともいわれるバンドが、全国各地でプロとして活躍していたといわれる。
そのなかにあって傑出した存在だったのがザ・ゴールデン・カップスで、R&Bやブルースを演奏させたら右に出るものがないといわれた実力派であり、しかも革新的であった。

横浜の本牧にあった「ゴールデン・カップ」というクラブには、平尾時宗とグループ・アンド・アイという、地元の若者達によるバンドが1966年の晩秋からレギュラー出演していた。
彼らは大半のメンバーがまだ10代だったにもかかわらず、ミュージシャンとしての才能や腕前、あるいはルックスの良さが目立っていた。

ゴールデン・カップスが結成されたいきさつについて、ギタリストのエディ藩はこう語っている。

「本牧の『ゴールデン・カップ』という店でバンドやってるんだけど見に来ない?」って(後に仲間になる)デイヴ平尾に言われて、見に行って。彼がそのとき目指してた新しいバンドを作るのに、ボクがメンバー集めてきて、作ったのがゴールデン・カップス。アルバイト気分で始めた。
当時、エレキバンドは珍しかったんです。若いから覚えもいいし、みんな才能もあった。米軍キャンプで引っ張りだこになりましてね。兵隊から本国でやっている演奏のテクニックを伝授してもらって、自負するのもおかしいけど、当時としては最先端の音楽をやっていたと思うんですよ。


ライブが始まるのは夜になってからで、一晩に4セットを毎日やって週に1回休むという仕事だ。

ソウル・ミュージックをレパートリーの中心にしていたゴールデン・カップスは、メンバー全員がジェームス・ブラウンを好きだった。
そして店の客を楽しませるパンキッシュで踊れる楽曲、トミー・ジェームス&ザ・ションデルスの「ハンキー・パンキー」や、ヤング・ラスカルズのナンバーなどのほかに、ロバート・ジョンソンのブルースも演奏していた。

そして店の名前をそのままバンド名にして1967年に東芝レコードからデビューが決まったが、レコーディングが始まる前からバンドとレコード会社の間に溝ができていく。
レコード会社のディレクターが用意したのは黛ジュンの「恋のハレルヤ」が大ヒットして脚光を浴びた新進気鋭のソングライター、鈴木邦彦となかにし礼のコンビによる作品だった。

慶応大学の名門ビッグバンド「ライト・ミュージック・ソサエティ」に所属していた鈴木邦彦は在学中から、プロのミュージシャンになってジャズ・ピアノを弾いていた。
そもそも音楽に目覚めたきっかけは、幼少の頃に母親に連れて行ってもらった横浜のニューグランドホテルで、バイオリンの演奏を聴いたことだったという。


 「いとしのジザベル」
 作詞:なかにし礼 作・編曲:鈴木邦彦

 貴女の面影 忘れはしない
 シャネルの香りは 今も残る

 恋 消えた恋 帰らぬ 昔の日よ
 恋 燃える恋 今でも 心はあつい
 愛していたのに 愛していたのに
 ジザヘル ジザヘル ジザヘル
 貴女はいない


その曲と歌詞を受け取ったエディ藩はすぐに、クレージーキャッツの植木等が歌った曲に構造が似ていると気がついた。

いや、びっくりしたよね、正直ね。どういう風にやるのってたずねてしまった。これクレージーキャッツみたいな曲ですねって言ったら、どこがクレージーキャッツだって、作曲の鈴木邦彦がへそ曲げちゃって、いいよ、歌ってくれなくてってことになって‥‥。


確かにこの曲はバラード風に歌い始めるスローなAメロの8小節と、一気にテンポ・アップしてたたみかけていくBメロの16小節という展開が、クレージーキャッツの植木等が歌って1962年にヒットした「ハイそれまでヨ」と同じだ。

さらに驚かされるのは歌い出しの歌詞もまた、クレージーキャッツは平仮名でゴールデン・カップスは漢字だったが、音は同じ「あなた」で始まっていた。

 「ハイそれまでヨ」
 作詞:青島幸男 作・編曲:萩原哲晶

 あなただけが 生きがいなの
 お願い お願い 捨てないで

 テナコト言われてソノ気になって 三日とあけずにキャバレーへ
 金のなる木があるじゃなし 質屋通いは序の口で
 退職金まで前借りし 貢いだあげくが ハイ それまでョ
 フザケヤガッテ フザケヤガッテ フザケヤガッテ
 この野郎



おそらく鈴木邦彦はそんなことにまったく気がつかないまま、作曲していたのではないかと考えられる。
もちろんメロディーはまったく関係がないのは当然だから、「どこがクレージーキャッツだ?」とへそを曲げてしまったのだろう。

ちなみにエディ藩は3曲めのシングルでは、同じ鈴木邦彦の書いたB面の「長い髪の少女」のほうがヒットすると感じたので、ディレクターにそれを進言して大ヒットに結びつけている。

エディ藩にはこのように楽曲の構造や本質を瞬時につかむ、音楽のセンスが備わっていたのだ。
やがてその能力はソングライテイングの面に活かされて、後世に残る名曲を生み出すことにつながっていく。

しかし「いとしのジザベル」のデビューで始まった1967年には、まだ成功をつかむまでにはいかなかった。

そしてハーフが2人しかいないのに全員がハーフという触れ込みで売り出されたことや、プロフィールの年齢が若くごまかされたことなどを通して、早くもこの段階から自分たちのやりたい音楽とレコード会社やプロダクションとの間には、相容れないものがあるということを意識せざるを得なくなった。

(来週に続く)


エディ藩「丘の上のエンジェル」


〈参考文献〉エディ藩の発言は前半が下記のサイトからの引用です。公益社団法人 横浜中法人会 http://www.hohjinkai.or.jp/interview/0902.html

また後半は、越谷正義監修『ジャパニーズ・ロック・インタビュー集 時代を築いた20人の言葉』(TOブックス)からの引用です。

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