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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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憧れの人、小林旭に大瀧詠一が渾身の力を振り絞って作った「熱き心に」

大瀧詠一は長い間、自分がミュージシャンになったのはエルヴィス・プレスリーに憧れて、ロック・ミュージックに興味を持ったことだと思い込んでいたという。 だが実際にはアメリカの”エルヴィス”でなく、日本の”アキラ”すなわち小林旭が先だったことに気づいた。 それは1970年代の後半になってから、日本の音楽史を研究し始めてわかったことだった。...

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紅白歌合戦で唄われてから火がついた「王将」〜すぐれた歌詞の背後には必ず物語が潜んでいる~

1961年の夏は近代生活の必需品という触れ込みで、旭化成から「サランラップ」という新商品が売り出された。 厚さ10ミクロンのラップは空気や水をほとんど通さないために、冷蔵庫が普及し始めた家庭では必需品となっていく。 アメリカで誕生したラップの急速な普及で日本の食生活はアメリカ化が進み、台所の呼び名はキッチンに変わった。...

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『浜田真理子 in 三江線』~廃線になる列車で行われた歌声イベントと「あなたへ」

中国山地を貫く江の川に沿って、島根県江津市の江津駅と広島県三次市の三次駅を結ぶJR三江線は、全長108キロの鉄道路線で全部で35の駅がある。 40年余りに渡って小さな集落をつないでゆっくりと走り抜けてきた三江線は、沿線の人口減少やマイカー利用者によって乗客が減ったことから、廃線の危機が迫っていた。 『浜田真理子と「うたごえ列車」で行こう in...

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1980年1月27日にシェフィールドで行われたクラッシュのライブで起きた「白い暴動」をめぐる事件

1980年1月に行われたクラッシュの「16トンズ・ツアー」は、彼らの名前を音楽史に刻むことになったアナログ盤2枚組のアルバム『ロンドンコーリング』の発売した直後に行われた。 日本からそれを見に行ったレコード会社の担当ディレクターだった野中規雄が、そのときのことを後にブログに書いた記事を紹介したい。...

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初来日したカーペンターズが屈辱を味わった日本武道館における第1回世界歌謡祭

1970年11月20日から日本武道館で開催された第1回東京国際歌謡音楽祭(世界歌謡祭)は、日本で初めて行なわれた国際的なポピュラー音楽コンテストである。 世界の38か国から選ばれた44アーティストが参加して、コンテストのために作られたオリジナル曲を競うという試みだった。 司会は坂本九と作家の藤本義一、監修役の音楽プロデューサーとして名を連ねたのは石丸寛、いずみたく、中村八大、服部克久の4人。...

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知られざる名曲「丘の上のエンジェル」①~それはザ・ゴールデン・カップスのデビューから始まった~

1960年代後半に巻き起こったGSブームではその数百ともいわれるバンドが、全国各地でプロとして活躍していたといわれる。 そのなかにあって傑出した存在だったのがザ・ゴールデン・カップスで、R&Bやブルースを演奏させたら右に出るものがないといわれた実力派であり、しかも革新的であった。...

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知られざる名曲「丘の上のエンジェル」②~スタンダード・ソングになったゴールデン・カップスの「長い髪の少女」

ザ・ゴールデン・カップスは英語の曲しか歌ってこなかったので、ヴォーカリストでリーダーだったデイヴ平尾も、デビュー曲「いとしのジザベル」では戸惑ってしまったそうだ。 だが坂本九の歌唱法を参考にして、なんとか日本語でもスムーズに歌うことが出来た。 しかし1967年6月15日に発売された「いとしのジザベル」は小ヒットにとどまり、前評判が高くて注目されていた割に、今ひとつという結果に終わった。...

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宇多田ヒカルがプロデューサーとして世に送り出すアーティスト、小袋成彬の「Daydreaming In Guam」

2018年の正月が明けてまもなく、宇多田ヒカルがプロデュースするアーティストのお披露目ライブが、1月16日に行われるというニュースが知人からもたらされた。 そしてその日の午後4時すぎに東京・乃木坂にある会場へ行ってみると、入場時に渡された資料のなかから、宇多田ヒカルのこんな言葉が目に飛び込んできた。 この人の声を世に送り出す手助けをしなきゃいけない...

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日本独自のシングル発売から生まれたカーペンターズの全米ナンバーワン・ヒット「トップ・オブ・ザ・ワールド」

兄妹デュオのリチャードとカレンが「カーペンターズ」名義で、ロサンゼルスのA&Mレコードとの契約を結んだのは1969年のことだ。 その年にリリースされた彼らのファースト・アルバム『オファリング』は、当時はほとんど注目されなかった。 だがビートルズのヒット曲をカヴァーした「涙の乗車券」がビルボードのHOT100で、最高54位になったことから一部の音楽ファンに好印象を残した。...

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エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」③~ゴールデン・カップスの最後

レギュラーで出演していた店の名前をそのままバンド名にして1967年にデビューしたザ・ゴールデン・カップスは、もともと志向していたR&Bではなく、ブームになっていたグループサウンズでヒット曲を出すグループになった。 だが本牧のクラブ”ゴールデン・カップ”に帰ってくると、以前と変わらずに本格的なR&Bを演っていた。...

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どんとが愛した清志郎が、どんとのために歌ってくれた「孤独な詩人」

どんとがハワイで37歳の若さで急逝したのは、2000年の1月28日(日本時間)のことだった。 忌野清志郎はレギュラーで書いていた雑誌に、こんな追悼文を寄せている。(注1) 雰囲気のあるいい奴だった。 俺の音楽の理解者だった。 もっとたくさん会えば良かったが今はもう遠い。 今年も年賀状が届いたばかりだというのに…。 さようなら、どんと。安らかに眠ってくれ。...

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リサイタルで完璧なオーケストラ・ヴァージョンとしてうたわれた美輪(丸山)明宏の「ヨイトマケの唄」

シャンソン歌手の美輪明宏は1957年にデビュー・シングル「メケ・メケ」をヒットさせてスターになったものの、同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングにあって、その後はマスコミから締め出されて一旦は忘れられた状態になってしまった。 しかし1963年の秋に全曲を自作自演の曲で構成した「丸山明宏リサイタル」で見事にカムバックを飾ると、1965年には「ヨイトマケの唄」をヒットさせて完全復活した。...

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エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」④~アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌~

エディ藩はザ・ゴールデン・カップスが解散した1972年以後もギタリスト、ヴォーカリストとして音楽活動を続けて現在に至っている。 1981年にソロで発表した「横浜ホンキートンク・ブルース」は派手なヒットにはならなかったが、さまざまなシンガーにカヴァーされてスタンダード・ソングになっている。 そんなエディ藩が1997年に発表したにもかかわらず、人前では歌うことなく”封印”していたという歌がある。...

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岩谷時子にとってなつかしのレコード~宝塚時代に越路吹雪が可愛らしい声で歌った「ブギウギ巴里」

越路吹雪と岩谷時子は40年近くもの間、お互いに深い友情で結ばれていた。 昔から女同士の友情は成立しないとか、長くは続かないとよく言われていたものだが、二人は宝塚歌劇団の屋根の下で出会って以来、喜びも悲しみも共にして生きてきた。 1959年には越路の結婚という大きな転機があったが、それを機にお互いが相手を思いやるようになり、ますます友情を深めていったという。...

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追悼・西部邁~歌謡曲を心から愛した素朴な先生が口ずさんでいた仲宗根美樹の「川は流れる」

小田急線 の祖師ヶ谷大蔵駅から南に歩いて3~4分のところに、西部邁さんが常連として通った小さなバーがある。 名前は「Rose(ローズ)」、地元の常連のほかに音楽関係者の姿も見られる。 店のママは坂本ナポリさん、若い頃は音楽事務所に勤務していた洋楽ファンで、実験的ポップス・ユニットのSPANK HAPPYのマネージャーだったこともある。...

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音楽の殿堂として知られるカーネギーホールでビートルズが開催したコンサート

デビューから1年たらずのうちにイギリスで最も人気があるグループになったビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインはアメリカ進出にあたっていくつかの作戦を考えた。 そのひとつがニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開くことだった。...

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岩谷時子に魂を入れてもらって誕生したザ・ピーナッツの名曲「ウナ・セラ・ディ東京」

作曲家の宮川泰はザ・ピーナッツのために書いた「東京たそがれ」という曲が、実はあまり好きでなかったという。 最初にこの曲を作り始めたときは、とにかく暗いメロディでしょ?  作っていてどんどん悲しくなっていくのね。 だから最初は自分ではあんまり好きじゃなかったんです。 だが新曲としてレコーディングすることになったので、越路吹雪のマネージャーだった岩谷時子に作詞してもらった。...

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2回目の「エド・サリヴァン・ショー」にマイアミからの生中継出演で人気を決定づけたビートルズ

1964年2月12日、ビートルズはカーネギーホールで午後7時45分からと午後11時15分から、それぞれ35分間の2ステージを披露して歓声と熱狂に包まれた後、ホテルで一息入れてから夜明けまでニューヨークの夜を楽しんだ。 そして翌13日、ビートルズはマイアミへ向かうため、ナショナル・エアライン11便に搭乗した。 マイアミ国際空港に到着した彼等を出迎えたのは数千人にも及ぶ、熱狂的なファンの大歓声だった。...

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浅川マキに発見されて歌い継がれてきた日本語のブルーズ、南正人「あたしのブギウギ」

1975年の日本の音楽シーンでは、ユーミンこと松任谷(荒井)由実がシングルの「ルージュの伝言」を2月20日に発表した。 それを契機にマスコミで次第にニューミュージックという言葉が使われるようになり、それにともなって新しい潮流が生まれていく。...

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幻の音楽番組となっている沢田研二の『セブンスターショー』を作ったドラマの鬼才・久世光彦

1976年2月15日から3月28日までの7週間 、日曜日の19時30分~21時までという当時のゴールデン・タイムを使って、「サンデースペシャル 」と題した音楽番組がTBS系列でオンエアされた。 絶大な人気があったNHKの大河ドラマはその年の1月4日から、加藤剛と吉永小百合が主演する『風と雲と虹と』が初回時に30,1%という高視聴率で始まっていた。...

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