「戦争は知らない」は稀代の詩人にして劇作家、昭和が生んだ元祖マルチ・アーティストの寺山修司が、おそらくは最初に作詞を手がけた楽曲だ。
幼い頃に父を戦争で亡くしている歌詞の主人公、「私」には当然ながら作者の寺山自身が投影されている。
青森県警弘前署の刑事だった寺山八郎は招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死し、還って来ることはなかった。
残された母と子のもとに送られてきたのは骨壷だけで、中に入っていたのは石ころと枯葉だった。
戦争は知らない 作詞:寺山修司 作曲:加藤ひろし
野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
帽子にいっぱい摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を何も知らない
だけども私に父はいない
父を想えば ああ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
戦で死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
20年後のこのふるさとで
明日お嫁に お嫁に行くの
名前も知られていない野に咲くに花には、”戦で死んだ悲しい父さん ”だけでなく、同じように生命を奪われた戦死者たちの無念と、父を奪われた子どもの悲しみが託されている。
これを作曲したのは大阪のGSグループ、リンド&リンダースの加藤ヒロシ、歌ったのはラテン歌手の坂本スミ子だった。
「ラテンの女王」として知られて坂本スミ子は、1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したが、そろそろ路線変更を迫られていた。
そこで意外とも思われたフォークソング調の「戦争は知らない」に挑戦したのである。
しかし1967年2月に東芝レコードから出たシングルは、残念ながらまったく不発に終わった。
”いくさ知らずで二十才になって 嫁いで母に母になるの”という歌詞は、人気司会者だった栗原玲児と1966年に離婚した直後で、しかも30歳を過ぎていた坂本スミ子にはそぐわなかったのだ。
B面の「勇士の故郷(ふるさと)」は戦争から20年目が過ぎた日本で暮らす、満州から引き揚げて来た男の歌であり、「戦争は知らない」とは対になっている。
さみしい納屋の暗がりで わらをたたいている父よ
夜明けのまきを割りながら 軍歌唄っている父よ
はるか はるかに雲のゆくところ
戦士の墓が並んでる
満州よりもせまいけど 麦の青さを踏む父よ
ここがあなたのふるさとだ ここが勇士のふるさとだ
はるか はるかに夕日の沈むところ
あれが明日の地平線
ちょうどその頃、京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて、1967年12月25日に東芝レコードからシングル盤が発売になって大ヒットを記録した。
すでに解散していたフォークルだったが、中心メンバーだった北山修と加藤和彦は1年だけの期間限定で再結成することにした。
そこからはしだのりひこを加えたトリオで、プロとして積極的に音楽活動を行った。
その活動のおかげで埋もれかかっていた「戦争は知らない」が、よみがえることになったのである。
1968年の7月27日に渋谷公会堂で行われたコンサート『当世今様民謡大温習会(はれんち りさいたる)』のなかから、フォークルは「戦争は知らない」のライブ・テイクが、シングル「さすらいのヨッパライ」のB面に収録されて68年11月10日に発売になった。
このときはA面がまったくヒットせず終わったにもかかわらず、B面の「戦争は知らない」は新たな生命を吹き込まれたことで、若者たちに知られて歌い継がれていくことになった。
加藤和彦という音楽家は誰も気がついていない名曲を見つけ出す、特別の耳と感性を持っていたようである。
彼は興味をもった作品に出会うと洋楽も邦楽も関係なく、ジャンルなどにまったく拘泥せず、楽曲の本質をつかんでカヴァーしてレパートリーに加えた。
2009年10月16日に自死するまで、加藤和彦は折にふれて「戦争は知らない」を唄い続けていった。
そして「戦争は知らない」は寺山修司の愛弟子だったカルメン・マキを筆頭に、本田路津子、頭脳警察、加藤登紀子、元ちとせなどのアーティストにカバーされたことで、一度もヒットしなかったのに21世紀の今日にまで歌い継がれている。
加藤和彦・坂崎幸之助
ザ・フォーク・クルセダーズ
加藤登紀子
」
(注)本コラムは2015年10月9日に公開されました。
The post ザ・フォーク・クルセダーズに発見されて生命を吹き込まれた寺山修司の「戦争は知らない」 appeared first on TAP the POP.