わずか15歳で日本の歌謡界の頂点に立つスーパースターとなった美空ひばりが、初めてジャズ・ナンバーの「上海」をレコーディングしたのは、1953年の4月3日だった。
ドリス・デイが前年にヒットさせたスイング系のジャズ・ソングを、美空ひばりは始めのワンコーラスは英語でカヴァーし、後半からは日本語歌詞で見事に唄いこなしている。
SP盤のレコードは6月1日、タンゴの名曲「エル・チョクロ」の日本語カヴァーとカップリングで発売された。
「Shanghai」美空ひばり SP盤 電蓄
美空ひばりが師匠にあたる歌手でボードビリアンの川田晴久と一緒にハワイとアメリカ西海岸で、本格的な公演を敢行したのは1950年の5月から6月にかけて約2ヶ月間だ。
それはレコード・デビューしてから2年目のことで、美空ひばりはまだ13歳になったばかりだった。
太平洋戦争で殊勲をたてたハワイ出身の二世部隊、第百大隊の記念塔を建設するための基金を募集する目的で開催された興行は、日系人の多いハワイでは大成功を収めた。
それから二人はアメリカ本土に渡ってサクラメントを皮切りに、日系人が住んでいるカリフォルニア州の各地をコンサートで回ったのである。
ステージでは自分の持ち歌だった「悲しき口笛」と「河童(かっぱ)ブギウギ」のほか、笠置シヅ子の「ヘイヘイブギー」などを歌った。
またダイナ・ショアやボブ・ホープで有名な「ボタンとリボン」は英語でカヴァーし、ゆく先々で日系人だけでなくアメリカ人にも大喝采を受けた。
ただし、プロモーターが不慣れだった上に強行日程だったことからトラブルが多発し、文化や価値観が全く異なる国での気苦労は絶えなかった。
それでもロスアンゼルスではボブ・ホープやスペンサー・トレイシー、マーガレット・オブライエンといったハリウッド・スターと会ったり、ジャズのライオネル・ハンプトン楽団を観るなど、貴重な体験を重ねて凱旋帰国した。
若くして本場のエンターテインメントに直に触れて、その息吹を全身で吸収してきた成果は、帰国後の歌にはっきりと表れていくことになる。
歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チューイン・ガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
ポップス調の「東京キッド」を筆頭に、ジャズとクラシックと民謡を組み合わせた「リンゴ追分」、最新流行だったマンボによる「お祭りマンボ」など、美空ひばりはどんなタイプの楽曲でも自由自在にリズムに乗って、しかも伸び伸びと唄えるようになっていった。
それはジャズの本場であるアメリカのミュージシャンたちをバックに歌ってみて、ほんもののグルーヴ感を身につけたことが大きく左右したのではないかと考えられる。
学校では決して教えてくれない社会勉強をしながら生きてきた美空ひばりが、幼い頃から天才歌手の名に恥じない名唱を残せたのはこうした体験のなかで、あらゆる音楽に優劣をつけることなく、楽曲のエッセンスを吸収しながら自分の表現として、独自の世界を作り上げていったからであった。
(注)本コラムは2017年4月3日に公開されました。
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