京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)が、解散コンサートのために自主制作したアルバム『ハレンチ』を頒布したのは1967年10月のことだった。
するとそこに入っていた「帰って来たヨッパライ」が、”変な曲”だと評判になって関西のラジオ局から火がついた。
その年の10月から始まっていたニッポン放送の深夜番組「オールナイトニッポン」が、「帰って来たヨッパライ」を取り上げたのは11月で、そこから大ヒットの兆しが見えたのでシングル盤が12月25日に発売されることになった。
すでに解散していたフォークルだったが、中心メンバーの北山修(京都府立大)は加藤和彦(龍谷大学)に対して、再結成して音楽活動しようと説得している。
そのときにメンバーに加ったのが音楽仲間の一人、同志社大の学生だった端田宣彦である。
京都のフォーク集団AFL(アソシェイテッド・フォークロリスト)を率いてリーダー的存在になっていた端田宣彦は、1964年に結成したドゥーディ・ランブラーズの一員としてレコード・デビューしたこともあった。
フォークルに加入した経緯については、北山修がこう語っている。
加藤はコックを目指していて、確かどこかの企業の食堂に就職することが内定していたと思います。なので、私の誘いにも当初は乗り気ではなかった。何度か説得を試み、1年限りでどうだ、と私が言うと、加藤もやっと賛同してくれた。そして加藤は、親しくしていた私たちの音楽仲間であるはしだのりひこ(端田宣彦)をメンバーに強く推薦しました。ちなみに、はしだは先の解散コンサートの主催者であり、加藤の近所に住み、彼の心理的な支えであり、美しいテナーの持ち主でした。
もともとプロ・デビューなど考えていなかったフォークルだったが、セカンド・シングルの「イムジン河」の発売中止などのアクシデントを乗りこえて、「悲しくてやりきれない」をヒットさせたことで音楽面での評価が高まった。
それに続いてザ・ズートルビ―の名義で、カレッジ・フォークやGSをパロディーにした「水虫の唄」を出してヒットさせるなど、フォークルはそれまでにない遊び心と若さ、アマチュア的で自由な発想をたずさえて、芸能界とは異なる可能性を探りながら日本の音楽シーンを開拓していった。
そして実験的かつ画期的なアルバムとなった『紀元貳阡年』を発表したが、はしだのりひこは北山修が作詞した「何のために」を作曲し、メロディーメーカーとしての片鱗を見せていた。
フォークルは当初の予定よりも早い1968年10月、「さよならコンサート」を開催して全国をまわり、実質的に活動の終止符を打った。
はしだのりひこはそのとき、シューベルツを結成して「さよならコンサート」のなかでお披露目を行っている。
メンバーに迎えたのは京都の音楽仲間だった初代ジローズの杉田二郎、ザ・ヴァニティー越智友嗣と井上博だった。
シューベルツのデビュー曲となった「風」(作詞:北山修)は、1969年1月にシングル発売されると大ヒットを記録し、年末の日本レコード大賞では新人賞にも選ばれた。
ところが翌年の3月、ベースの井上博が急死したことによって、シューベルツは解散することになった。
その後、はしだのりひことマーガレッツを経て、1971年にははしだのりひことクライマックスが結成されている。
グループのデビュー曲「花嫁」(作詞:北山修)は、またしても発売と同時にヒットして、その年はNHKの「紅白歌合戦」に出演を果たした。
花嫁は 夜汽車にのって とついでゆくの
あの人の 写真を胸に 海辺の街へ
命かけて燃えた 恋が結ばれる
帰れない 何があっても心に誓うの
小さなカバンにつめた 花嫁衣裳は
ふるさとの丘に 咲いていた野菊の花束
命かけて燃えた 恋が結ばれる
何もかも 捨てた花嫁 夜汽車にのって
はしだのりひこはフォークル解散後も、「帰って来たヨッパライ」や「戦争は知らない」をレパートリーにしていた。
とくに「戦争は知らない」(作詞:寺山修司 作曲:加藤ヒロシ)は、嫁ぐ日の娘が主人公であるだけでなく、内容が「花嫁」とつながっているせいか、シューベルツでもクライマックスでも歌い継いでいる。
戦さで死んだ 悲しい父さん
私は あなたの娘です
20年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい 遙かな父さん
いわし雲とぶ 空の下
戦さ知らずに 20才になって
嫁いで母に 母になるの
戦争は知らない/はしだのりひこ&坂崎幸之助
(注)北山修氏の言葉は著書「コブのない駱駝」(岩波書店)からの引用です。
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