『江利さん幻の音源見つかる/ロス公演で「唐獅子」熱唱』というニュースが流れたのは、江利チエミがなくなってから22年後の2004年4月2日だった。
江利チエミは1980年5月、ロサンゼルスで開いた最後の海外公演で「唐獅子牡丹」を歌う前にひとこと、こう加えていたという。
「私が大変親しくしていた人に敬意を表して、この歌を歌いたいと思います」
高倉健が主演した東映映画『昭和残侠伝』シリーズの第2作は1966年1月13日に公開されたが、主題歌のおかげもあって大ヒットになったと言われている。
その映画『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』の監督は佐伯清だが、予告編を作るのはチーフ助監督の仕事であった。
後に遺作となった『あなたへ』(2012年)を筆頭に、『ホタル』(2001年) 、『鉄道員 – ぽっぽや -』(1999年) 、『あ・うん』(1989年) 、『夜叉』 (1985年)、『居酒屋兆治』 (1983年) 、『駅 STATION』 (1981年) 、『『冬の華』 (1978年) と、高倉健に最も信頼される監督として活躍する降旗康男は、このときに予告編をつくったことで会社に認められることになった。
東映では人気が急上昇してきた高倉健が主演するので、まだ撮影が始まる前からかき入れ時の年末年始に向けて、正月番組の特報を流すことにしていた。
しかし映像にする材料は何もない状態だったので、降旗はそれまでに撮った映画の和服姿の写真を集めて、それをフィルムにおこして特報を作ったという。
健さんが大泉で撮った和服姿のモノクロ・スチールを集めてきて、これをシネマスコープのサイズにはめ込んだんですが、スチールはサイズが違うから両端に余白ができる。その両端を金箔にしたり、浅草の提灯を撮ってきて入れ込んだりと、かなりどぎつい特報を作ったんです。
その時点では主題歌の「唐獅子牡丹」が完成していたので、降旗は特報のバックにずっとその曲を流すことにした。
すると映画館からの情報で、観客が歌に”乗っている”と言われたという。
撮影したフィルムを使った予告編でもバックに曲を流したところ、さらにお客さんが”乗っている”との話が伝わってきた。
特報や予告編がいわば、プロモーションビデオの役割を果たしたのである。
「唐獅子牡丹」は反社会的だという理由で民放連から放送禁止に指定されたために、テレビやラジオからは完全に閉め出された。
だが歌との相乗効果で映画が大ヒットしたことで、レコードも息の長いロングセラーになっていった。
「唐獅子牡丹」のレコーディングは、1965年にキングレコードのスタジオで行われたようだ。
歌の世界では江利チエミが先輩なので、スタジオのブースにまで入って、付きっきりで高倉健にアドバイスしていたという。
義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で 吠えてる
唐獅子牡丹(からじしぼたん)
高倉健は決して歌が上手いわけではないが、訥々とした素朴さと味わいがある声で、しかもリズムのノリはとてもいい。
そこは間違いなく江利チエミの歌唱指導によるものであろうし、そのノリの良さが映画館で観客から無言の支持を得た勝因でもあっただろう。
「唐獅子牡丹」の反応に気づいた東映は急きょ撮影の現場に対して、映画のなかで歌を長く使うようにという会社命令を出した。
それにへそを曲げたのが佐伯監督で、降旗はこのように振り返っている。
これに佐伯さんが『俺は歌謡映画を撮っているんじゃない』と怒っちゃって。長くする分の画は、僕とカメラマンの星島一郎さんとで考えて撮れと監督に言われたんです。健さんと池部さんが並んで歩く、殴り込みに向かうシーンを長くしたいんですが、そこをリテイクするためだけに池部さんを呼ぶわけにはいかない。だから健さんが一人で歩いている場面を撮ったんです。撮るといっても、風呂敷にくるんだ刀を出したり、刀の鯉口を切ったりといったことなんですけれど、止まってやると歌と合わないですから、歩きながらその動きをやってもらって。
とにかく歌を長く聴かせるためにと高倉健の歩く姿を工夫して加えた降旗監督は、この時に偶然のこととはいえ初めて高倉健を演出したことになったのだ。
そんな思い出深い「唐獅子牡丹」を江利チエミが自分のレパートリーに加えのは、1970初頭に発売した2枚組のLP『ご存知!チエミ節~唐獅子牡丹からさのさまで~』である。
1968年にポリープの手術を受けた江利チエミは、おそらく豊かな声量だった低音を出しにくくなったためだろうが、声を張らずに全体に軽めに抜ける発声に切り替えている。
そして新たな歌唱法で自身のオリジナル曲やスタンダード・ソング、それに当時のヒットをアルバムに収めたのだった。
しかし高倉健と江利チエミ夫妻はその年の初めに、世田谷区瀬田の自宅が全焼する不幸に見舞われている。
さらには親族であるがゆえの複雑な愛憎関係を原因とする金銭トラブルや、嫉妬に根ざした犯罪的な出来事が重なって歯車が噛み合わなくなっていく。
身内の不始末で夫の高倉健にまで迷惑をかけるわけにはいかないと、江利チエミは1971年に不本意ながら離婚することを決意する。
やがて1982年2月13日、江利チエミは45歳の若さで急死してしまう。
何たる偶然か、葬儀が行われた2月16日は高倉健の誕生日、そして二人の結婚記念日でもあった。
生涯を通して独身を貫いた高倉健は、江利チエミの命日の前後には必ず墓参りに出かけていたという。
〈参考文献〉降旗康男監督が語った文章は、キネマ旬報ムック「高倉健メモリーズ」(キネマ旬報社)からの引用です。
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