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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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奥村チヨのヴォーカルと川口真のアレンジによるベンチャーズ歌謡の「北国の青い空」

1965年3月に東芝レコードからデビューした奥村チヨは、キャッチフレーズが”和製バルタン誕生”というものだった。 デビューを目前にしていた17歳の時に、音楽雑誌で「’65のホープ登場」と題してこう紹介されていた。 奥村チヨは、その容姿といい、歌い方といい、また年齢といい、今人気絶頂のフランスの新星シルヴィ・バルタンによく似ていることから、日本のシルヴィ・バルタンと呼ばれています。...

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伊藤銀次の自伝「MY LIFE, POP LIFE」に生き生きと描かれる日本のポップスとロックの誕生絵巻

伊藤銀次は大滝詠一からその昔、「伊藤銀次はフィクサー、ロック界のキッシンジャーだ」と言われたことがあったという。自分で意図してそうしているつもりはまったくないにもかかわらず、外から冷静に観察して分析する大滝詠一には、そのように見えていたのである。 気になる人がいると会ってみたくなり、どういうわけか会えてしまう。...

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発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日本中から注目される存在になった。 そしてプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、フォークルのセカンド・シングルに決まったのは「イムジン河」だった。...

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何も言わずに待ってくれた大滝詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

松本隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ロング・ヴァケイション)』が誕生したときの経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。...

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忌野清志郎「自分の感じたことを、そのまま形にしたいから、一つの詩を、ああでもない、こうでもないと、何日も考えてる」

(写真・井出情児) 日本人に”ダーリン”という言葉がなじむきっかけは、戦後まだ間もない頃に公開された西部劇『荒野の決闘(Oh my darling Clementine)』(監督ジョン・フォード)だった。 保安官ワイアット・アープをヘンリー・フォンダが演じた古典的な名作は、何度もリバイバル公開されたばかりでなく、全国各地の名画座では定番として上映されていた。...

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椎名林檎「丸の内サディスティック」~昭和の「東京行進曲」にもつながる扇情的な東京ソング

椎名林檎の制作担当ディレクターだった東芝EMIの篠木雅博が、椎名林檎のデビューに向けて楽曲制作の準備に入った時のことである。 その頃の篠木は現場の仕事を減らし、プロデューサー的な立場に移行しつつあった。 そのためにスタジオワークなどは、実績のある外部のディレクターに任せようと依頼した。...

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ニューオリンズ音楽から生まれた大滝詠一の「福生ストラット」は、ウルフルズの「大阪ストラット」によって全国に知られた

1975年5月30日に発売されたセカンド・アルバム『NAIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を発表した頃の大瀧詠一は、「びんぼう」や「福生ストラット」といったリズミックでファンキーな日本語の楽曲に挑んでいた。...

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ビートルズを世に出したブライアン・エプスタインとジョージ・マーティン、二人が初めて会った日

いくら天賦の才能に恵まれたアーティストであっても、それが人に認められなければ歴史に残る歌は生まれないし、後世に伝わっていくこともない。 そこには人と人との出会いがあり、いくつもの物語が存在している。 ビートルズが空前絶後の成功を収めて素晴らしい楽曲の数々を生み出したのは、ブライアン・エプスタインというマネージャーに出会ってからのことだ。...

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追悼・井上堯之①~好むと好まざるとに関わらず作家としてスタートしたのは萩原健一が奮い立たせてくれたからだった

デビュー51年目を迎えた永遠のロッカー、萩原健一(ショーケン)のツアーがビルボードライブ東京で初日を迎えたのは2018年5月2日のことだ。 第1回目の公演が始まる前から、会場は静かな熱気に包まれていた。 そこに流れるBGMはすべてボブ・マーリーの曲で、「ノーウーマンノークライ」が終わったのをきっかけに場内が暗くなった。 雷のSEとともに、ローリング・ストーンズの「We Love...

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ルイ・アームストロングが美空ひばりに残した手紙とレコード

美空ひばりの家には、大切に保存されていた古いジャズのLPレコードがあった。 そこにはジャズの王様と言われたアーティスト、ルイ・アームストロング(愛称・サッチモ)のサインが残されていた。 敬愛する日本の歌の女王、ひばりへ 神のめぐみと歌の心がいつも、あなたの上にありますように ルイ・アームストロング サッチモが生涯最大のシングル・ヒットを経験したのは、すでに60代になっていた1964年のことだった。...

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追悼・井上堯之②~「こんな親友を持てたこと、幸せに思うよ」

萩原健一(ショーケン)が俳優として圧倒的な存在感を放つようになった後、シンガーとしての活動を復活させたのはソロ・アルバム『惚れた』をリリースした1975年だった。 そのアルバムには脚本家の倉本聰が気に入ってテレビドラマ『前略おふくろ様』のモチーフに使った「前略おふくろ」や、フォーク・シンガー河島英五のカヴァーだった「酒と泪と男と女」などが収録されていた。...

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江利チエミが大切に歌い継いでいた高倉健との思い出が残る歌「唐獅子牡丹」

『江利さん幻の音源見つかる/ロス公演で「唐獅子」熱唱』というニュースが流れたのは、江利チエミがなくなってから22年後の2004年4月2日だった。  戦後、ジャズ歌手として活躍し「サザエさん」役でも人気のあった江利チエミさん(1937-82年)が晩年に残した米国公演の録音テープが2日までに、東京都内の親族宅で見つかった。...

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エレキギターと椎名林檎の「ギブス」、若者のロック離れとロックの初期衝動

音楽ファンに衝撃をもたらした「ギブソン経営破綻か」というニュースをめぐって、朝日新聞の「耕論」というページに3人の識者による見解が取り上げられたのは5月15日だった。 高級エレキギターで知られる米ギブソンが経営破綻した。若者のロック離れが言われるなか、エレキが音楽シーンにおいて「永遠の詩」だった時代は終わるのか。...

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追悼・西城秀樹~『∀ガンダム』の主題歌「ターンAターン」を作った小林亜星との出会いは『寺内貫太郎一家』

1999年から2000年にかけて放送されたフジテレビ系アニメ『∀(ターンエー)ガンダム』で、ストーリー前半のオープニング主題歌「ターンAターン」を歌ったのは西城秀樹だった。...

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平成を象徴する音楽家・椎名林檎が登場して日本語の歌に革新をもたらした1998年から99年

昭和元年と昭和64年は、ともに正味が7日間しかなかった。 したがって昭和という時代は昭和2年から昭和63年まで、西暦にすれば1927年から1988年までの約62年間であった。 それを半分に割ると前半が1927年から1957年まで、後半が1958年から1988年までの31年間となる。...

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「情熱の嵐」で西城秀樹にコール&レスポンスを定着させた作曲家・鈴木邦彦、3部作で少年から青年に成長させた作詞家・阿久悠

西城秀樹はロックンロールをベースにしたハードな曲調の作品で、日本の歌謡曲にロック的なスタイルを持ち込んだ。 子供のころから洋楽が好きで、小学生の頃から兄たちとバンドを組んでドラマーをやっていた西城秀樹は、1972年3月25日に「恋する季節」で歌手デビューした。...

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シルヴィ・バルタン~「アイドル」という言葉を日本に定着させたのは、「ロック」の洗礼をうけたフランスの美しい妖精だった

1965年5月11日に行われたシルヴィ・バルタンの東京公演後に、朝日新聞に載った「“よう精”にも似た魅力」と題した記事は、「アイドル」と「ロック」という新しい言葉が、いよいよ市民権を得ていく時代を表している内容だった。 純白の上着とスラックスで舞台に飛びだし、アクセントの強い身ぶりで踊りながら歌う 「シルビー・バルタン」 の公演 (11日東京、サンケイホール) はすさまじい “アイドル”...

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初来日でファンが急増した日本に残されたシルヴィ・バルタンのCMソング「レナウン・ワンサカ娘」

1944年にブルガリアで生まれたシルヴィ・バルタンが、両親と兄の家族4人でフランスへに亡命したのは1952年12月だった。 彫刻家でもあった父のジョルジュ・ヴァルタンは、フランス国籍を有するブルガリア人で、首都ソフィアにあるフランス大使館に勤務していた。 祖父もフランス生まれでフランス語を話したので、父はソフィアのフランス語学校で学び、音楽教育も受けていて趣味で作曲をしたという。...

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クリエイティブな空気のなかでレコーディングが行われた矢沢永吉の「時間よ止まれ」

1977年の夏に流れた資生堂のキャンペーン「サクセス、サクセス、」で、コピーを書いたのはコピーライターの小野田隆雄だった。 そこから生まれたのが作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童による「サクセス」である。 演奏はダウン・タウン・ブギウギ・バンド、編曲はメンバーだったキーボーディストの千野秀一、歌ったのは宇崎竜童。...

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「長崎は今日も雨だった」~前川清が歌ったのはエルヴィスとドゥーワップから生まれた新しい演歌だった

「長崎は今日も雨だった」はRCAレーベルのディレクターになった山田競生が最初に手がけたアーティスト、内山田洋とクール・ ファイブの記念すべきデビュー曲である。 明治大学に在学中からプロのハワイアンバンドでベースを弾いていた山田は、1958年から10年間にわたって和田弘とマヒナスターズのベーシストとして活躍した。...

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