東京都練馬区にある少年鑑別所で代々歌い継がれてきた作者不詳の歌「ネリカン・ブルース」が、ロカビリーブームの渦中で作られた東宝映画『檻の中の野郎たち』の主題歌に決まったのは1959年の春だ。
歌ったのは新人ロカビリー歌手の守屋浩、メロディーを採譜してアレンジしたのは音楽監督を担当した中村八大だった。
7月下旬に公開される映画にさきがけて、レコード会社のコロムビアは映画と同じ「檻の中の野郎たち」のタイトルで発売することにした。
だが鑑別所で歌い継がれてきたままの内容では社会的にもまずいだろうという判断で、映画の脚本を書いた関沢新一によって歌詞は穏便なものになった。
これに目をつけたビクターが同じ「ネリカン・ブルース」をもとにして、まだ無名だった坂本九で「野郎たちのブルース」の企画を立てた。
東芝レコードもロカビリー・スターの山下敬二郎に、そのものズバリで「ネリカン・ブルース」を歌わせてレコード化した。
こうして3社による競作として発売されることになった「ネリカン・ブルース」が、1959年6月30日の毎日新聞の社会面で大きく取り上げられた。
青少年不良化防止キャンペーンを連載していた毎日新聞は、口から口へと歌い継がれる「練鑑ブルース」のことを、少し前に「日陰の歌」として紹介したばかりだった。
その批判的な記事が発端となって、「ネリカン・ブルース」は社会問題になってしまう。
毎日新聞は「レコード会社に警告する」という社説を7月1日に掲載した。
この機会にいいたいのは流行歌を作る人たちの、ものの考え方の浅さについてである。ヤクザを否定すればヤクザを取り扱っても問題はない、というのがヤクザの歌をはやらせる口実になっているが、実際には、ヤクザを否定することで、感傷的気分をそそっているため、かえってヤクザを好ましいものに感じさせている。ぐれた女性の感傷を主題にして、やはり同様な気分を、世間に与えている傾向もあるし、愚劣低級な歌の数々で、一般の娯楽に暗い影をつくりすぎていることを、反省してみてはどうだろう。我々は「練鑑ブルース」の発売をとりやめるようにすすめると当時に、商売のために、流行歌を邪道へそれさせているレコード会社に警告する。
(毎日新聞1959年7月1日)
報道をきっかけにして法務省までがこの問題に口を挟んできたために、どこのレコード会社も発売中止の判断を下さざるを得なくなった。
そこであおりをくらったのが、後にレコード大賞に選ばれた「黒い花びら」である。
「黒い花びら」は無名の新人だった水原弘のデビュー曲で、山下敬二郎の「ネリカン・ブルース」のB面として発売される予定になっていた。
東宝映画『青春を賭けろ』の音楽監督としてこれを作った中村八大は、それまでの日本にはない新しい歌ができたと自信を持っていた。
だが東芝レコード大賞の担当ディレクターや、その同僚たちはみんな「変な歌だなあ」と口をそろえたという。
日本で最初の3連符のロッカバラードだった画期的な歌は、曲想もだがサウンドが新しすぎて、レコード業界のプロたちにさえ当時は理解できなかった。
しかもA面の発売中止騒ぎに巻き込まれて、オクラ入りしかかったのである。
だがそのことに納得がいかなかった中村八大は、東芝レコードの制作と宣伝の責任者だった石坂範一郎に会いに行って直訴した。
その結果ひと月後、「黒い花びら」をA面にした水原弘のデビュー・シングルが発売された。
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社内の宣伝や営業の担当者たちはその決定について半信半疑だったというが、発売されると「黒い花びら」はすぐに若者たちの支持を集めて人気に火がついた。
水原弘のハスキーな声の魅力と安定した歌唱力、それら支えるジャズメンたちの迫力ある演奏によって、「黒い花びら」は大ヒットしたばかりか、その年に制定された第1回レコード大賞でも堂々のグランプリに選ばれたのだ。
レコード会社が専属作家として抱える作曲家や作詞家の先生ではなく、ジャズの世界や放送作家の中から若くて瑞々しい感性を持った新しい才能が登場し、将来性を認められたといえる。
フリーの若い作家たちが新鮮な歌を作って大ヒットさせたという事実は、音楽業界の構造を根本から変えていくイノベーションの第一歩となった。
作詞家として脚光を浴びた永六輔は、その時のことを振り返ってこう語っている。
八大さんは学生の頃「ビッグフォー」というジャズバンドの天才ピアニストとして、当時すでに大スターだったんです。
声をかけられただけで幸せというくらいでした。
その後、民間放送が始まった当初、ぼくがジャズ番組の構成をしていて、八大さんからたまたま作詞をしないかと誘われました。
どう書いたらいいかわからないぼくに、「ぜったい書けるから」「とにかくやってみろ」と言って、歌の付録が付いていた雑誌「平凡」を参考にって渡してくれたんです。
それで書いたのが『黒い花びら』。
これが第1回のレコード大賞を受賞して、次々と作詞の注文が来るようになった。
ぼくはおしゃべりをするように日常会話で詞を書いてたんですけど、八大さんは、詞のムダな部分を一切削ぎ落とし、見事な歌に仕上げてしまう。
歴史の先生にでもなろうかと思っていたぼくに、作詞という一つの才能を見い出だしてくれた。
こうして「六・八コンビ」が書く新鮮な歌が、日本の歌謡曲が進むべき道標になっていく。
このとき永六輔は26歳、中村八大は28歳だった。
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(注)本コラムは2016年7月15日に初公開されました。The post 中村八大と永六輔のコンビが誕生した記念すべきデビュー作となった「黒い花びら」 appeared first on TAP the POP.