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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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「長崎は今日も雨だった」~前川清が歌ったのはエルヴィスとドゥーワップから生まれた新しい演歌だった

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「長崎は今日も雨だった」はRCAレーベルのディレクターになった山田競生が最初に手がけたアーティスト、内山田洋とクール・ ファイブの記念すべきデビュー曲である。

明治大学に在学中からプロのハワイアンバンドでベースを弾いていた山田は、1958年から10年間にわたって和田弘とマヒナスターズのベーシストとして活躍した。
日本の歌謡曲の歴史にその名を残した二大グループの全盛時に、山田はかたやバンド・メンバーとして、かたやディレクターとして関わっていたことになる。

しかし最初にクールファイブを担当する話がきた時は、まったく乗り気にはなれかったそうだ。

あー、嫌だなと思いました。私自身、コーラス・グループにいましたから、コーラス・グループだけは手がけたくないと思っていたんです。よりによってと思いました。そのとき、すでに「長崎は今日も雨だった」のテープは出来上がっていたんです。


テープの段階だったのに長崎の有線放送で1位になっていることを知った山田は、担当者としてその音源を聴いて大きく心を驚かされることになる。

それまで持っていた歌謡コーラスの固定観念みたいなものが、吹っ飛んでしまったんです。なんだ、こいつらはって興味がわいたのがきっかけなんです。


数多くのヒット曲を持つマヒナスターズがそうであったように歌謡グループはハワイアン出身が大半で、残りがロス・プリモスやロス・インディオスなどのラテン系だった。
ところがクールファイブの音楽からはロックンロールや、オールディーズのエッセンスが伝わってきたのだ。

山田に「なんだ、こいつらは」と思わせたのは演奏にビート感があり、エルヴィス・プレスリーにも通じるパワフルなヴォーカルが乗っていたことだろう。

内山田くんたちはロックンロールをやっていたりした連中の集まりなんです。彼らは、私もそうであったように、クラブで歌っていたんです。つまりは、お客を喜ばすために歌謡曲を歌わなければならなかったんです。そうした過程で、歌謡曲そのものに興味を覚えてきたわけです。



メイン・ヴォーカルで前川清にとって、音楽の原点となったのは中学までを過ごした基地の街、長崎県佐世保市のアメリカ兵が出入りする店にあるジュークボックスから流れてきたジャズやロックンロール、オールディーズである。
なかでも夢中になって聴いたのが、エルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」だったという。

前川は1965年から66年にかけて大流行したエレキブームのなかで、アマチュアのバンドでヴォーカルを担当したこともあった。
だが勉強が嫌いだったので親に内緒で高校を2年で中退し、サラリーマンや溶接工を経た後に、長崎市にある小さなクラブで歌い出した。
ヴォーカリストを探していたベースの小林正樹が聴きに来て、クールファイブで歌うようになったのは1968年のことだ。

長崎市の繁華街にあるグランド・キャバレー「銀馬車」の専属バンドだったクールファイブは、全員が楽器を演奏しながらコーラスを歌っていた。
そして自主制作した「涙こがした恋」と「西海ブルース」が長崎の有線放送で人気を得て、プロとしての地歩を固めつつあるところだった。

同じ頃に長崎で「銀馬車」と人気を二分する「十二番館」の専属バンド、コロラティーノが自分たちのオリジナル曲「思案橋ブルース」をレコード化したところ、1968年の夏から秋にかけて長崎だけでなく全国的なヒット曲になっていった。


ラテンバンドの東京パンチョスでリーダーだったチャーリー石黒は、森進一を見出して育てて世に出したプロデューサーでもあった。
彼がクールファイブを発見したのは、テレビの歌番組『ロッテ歌のアルバム』の公開収録で長崎を訪れ際のことで、「銀馬車」に立ち寄って前川清の声に惚れ込んだのだ。

そして彼らが自主制作するレコードに「涙こがした恋」を城美好のペンネームで提供した縁から、上京してプロになるように説得して日本ビクターへ紹介してくれた。

ところがデビューする直前になって、「西海ブルース」が使えないことがわかった。
「西海ブルース」は佐世保市を拠点に活動していた尾形義康の書いた楽曲だったが、「銀馬車」で芸能企画を担当していた吉田孝穂が、永田貴子(たかし)の名義で歌詞を書いてクールファイブに歌わせていた。
だがオリジナルを作詞・作曲した尾形から、レコード化の同意が得られなかったのだ。

そのためにデビューそのものが流れそうになり、吉田が急いで「長崎の夜」という歌詞を書いて、北海道放送のディレクターだった新居一芳(筆名:彩木雅夫)を訪ねて作曲を依頼することにした。

吉田は「十二番館」のコロラティーノに対抗するために、なんとしても長崎のご当地ソングで「銀馬車」からヒット曲を出したかった。
森進一の「命かれても」「花と蝶」「年上の女」を作曲した彩木ならば、ヒット曲が生まれる可能性が高いと信じていたのだ。

本業が北海道の放送局HBCのディレクターだった彩木は、そもそもご当地ソングというものが好きではないので気乗りしなかったらしい。
だが森進一の育ての親であるチャーリー石黒の紹介で、切羽詰まっていた吉田が遠路はるばる札幌まで会いに来たので、作曲を引き受けることにして歌詞を預かった。

ただしメロディーをつけ終わった段階では、八割りがたの歌詞を書き換えたという。
タイトルも「長崎の夜」ではありきたりのご当地ソングになってしまうので、「長崎は今日も雨だった」に変えることにした。
そもそもキーワードになった雨という文字が、元の歌詞には入っていないものだった。

ちなみに「長崎は今日も雨だった」の下敷きになっていたのはオールディーズの「ロンリー・ナイツ」(ザ・ハーツ)と、「イン・ザ・スティル・オブ・ザナイト」(ザ・ファイヴ・サテンズ)だろう。




1966年から68年にかけて大ヒットした加山雄三の「きみといつまでも」や、森進一の「女のためいき」に続く一連のヒット曲、水原弘の「君こそわが命」、石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」などはいずれも、三連符のロッカ・バラードによる作品であった。

出来上がってきた「長崎は今日も雨だった」も三連符のロッカ・バラードで、それをアレンジした森岡賢一郎は彩木の書いた「花と蝶」や「年上の女」のほか、加山雄三の「きみといつまでも」を手がけていてロッカ・バラードはお手のものだった。

1960年代後半に登場した3連符による新しい和魂洋才の演歌は、洋楽をバックボーンにしつつ日本語の母音を強調する三連符の楽曲と、ダイナミズムを感じさせる歌唱法によって定着していく。
それを可能にしたのが母音を強調する「さがし さがし求めてエエエ~」という歌唱法で、先行していた森進一や半年遅れでデビューしてくる藤圭子とともに、前川清はそのパイオニアとなっていった。


レコード・デビューが決まったクールファイブのメンバーたちは寝台特急「さくら」に乗って上京し、築地のビクタースタジオでレコーディングを行うことになった。
だが最年少だった前川は3段ベッドの一番上をあてがわれたために、天井ギリギリで狭くて一睡もできないまま、12時間以上かけて到着した東京駅からそのままスタジオへ入った。
前川がこう回想している。

「ヘッドホンがなくて、スピーカーから小さいカラオケの音が流れる中で歌って、自分の声はモニターできない。戸惑いながら4~5時間歌いました。徹夜で調子が悪くて、声の伸びも最悪。翌日もう一回歌わせてもらったけど、不思議なことに初日の方が声の仕上がりが良くて採用された。上京した直後で必死に一生懸命、何も考えずに歌ったのが良かったのかな。あの歌い方はもうできない」



<参考文献>中山久民編・著「日本歌謡ポップス史 最後の証言」白夜書房、読売新聞社文化部「この歌この歌手(上)運命のドラマ120」教養文庫

(注)前川清の言葉は2017年5月22日10時0分配信 スポーツ報知〈前川清、「長崎は今日も雨だった」は思い入れゼロだった〉からの引用です。http://archive.li/3oSKO#selection-319.0-319.26

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