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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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リンゴ・スターが加わってビートルズ=Fab Four(ファブ・フォー)の歴史が始まった日

1962年8月18日、マージー川をはさんでリヴァプールの対岸にあるバーケンヘッドの町で、地元園芸協会の17周年を記念するダンスパーティーがあった。 その夜の10時からハルム・ホールのステージに立ったのは、この日からリンゴ・スターを正式メンバーに加えたザ・ビートルズだった。...

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ブルース・スプリングスティーンが迎える68歳の誕生日によせて(Photo by 井出情児)

75歳になっても元気にツアーを続けているポール・マッカートニーが9月15日の夜、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで2日間にわたる公演をスタートさせた。 そこにブルース・スプリングスティーンが登場したのは、アンコールのときだったという。 ニューヨーク・ポスト紙によると、ブルースは自らのバンド「Eストリート・バンド」のギタリスト、スティーブン・ヴァン・ザントと共に舞台に現れた。...

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ビートルズを世に出したブライアン・エプスタインとジョージ・マーティン、二人が初めて会った日

いくら天賦の才能に恵まれたアーティストであっても、それが人に認められなければ歴史に残る歌は生まれないし、後世に伝わっていくこともない。 そこには人と人との出会いがあり、いくつもの物語が存在している。 ビートルズが空前絶後の成功を収めて素晴らしい楽曲の数々を生み出したのは、ブライアン・エプスタインというマネージャーに出会ってからのことだ。...

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追悼・大森昭男~はっぴいえんどの大瀧詠一を発見したことから始まったCM音楽の新時代

CM音楽のプロデューサーとして1970年代の音楽シーンに新風を吹き込んだ大森昭男は、日本におけるコマーシャルソングの祖といわれる三木鶏郎の門下生で、1960年に作家集団の「冗談工房」に入社して音楽制作の道を歩み始めた。...

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追悼・大森昭男~大瀧詠一が自分のポップスで最初の完成品と言った「サイダー’74」が陽の目をみるまでの1年間

大瀧詠一が自ら「大瀧ポップスの最初の完成品です」と自信を持って宣言する作品が誕生したのは、オン・アソシエイツのプロデューサー、大森昭男と知り合ってからちょうど1年が経った時だった。...

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大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ場所で、細野は指定されたベンチに座っていた。立教高校時代からの友人から、「経済学部におまえみたいに音楽にうるさいやつがいるんだ、紹介するよ」と言われていたからだ。...

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松本隆と大滝詠一の才能が出会いがしらに衝突して生まれた「春よ来い」~〈吐きすて〉の歌の系譜①

1973年9月21日、東京・文京公会堂で開かれたはっぴいえんどの解散コンサートが終わって、ライブ音源をレコードにするためにミックスしていたスタジオで、アンコールに登場したバンドを代表して大滝詠一が客席に向かって放った言葉を聞いた時の反応が面白い。 「もうこの4人でないと出来ない曲を、これから2曲続けてやります」 松本隆はそれを聞いて一緒にいた鈴木茂に向かって、思わず「いいね」と呟いたという。...

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吉田拓郎の「まにあうかもしれない」は岡本おさみによる吐きすてタンカだった〜〈吐きすて〉の歌の系譜②

岡本おさみが言うところの〈吐きすて〉の歌の元祖を海外に求めれば、真っ先に名前が挙がるのはボブ・ディランであり、ビートルズのジョン・レノンやローリング・ストーンズのミック・ジャガーなどが続くだろう。 そしてボブ・ディランやジョン・レノンから強く影響を受けた日本のシンガーと言えば、まずは吉田拓郎が筆頭に挙げられる。...

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発売禁止にならないように計算されていた頭脳警察の「ふざけるんじゃねえよ」~〈吐きすて〉の歌の系譜③

タイトルからも想像がつくように「ふざけるんじゃねえよ」は、詞も曲もサウンドもパンクそのものといって過言ではない。 社会に対するストレートな異議申し立ては、まさに〈吐きすて〉の歌であった。  ここまで突出したロックが1972年の日本で生まれていたのだ。...

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内田裕也語録その3~「男としていちばん輝いてる10年間は人のために尽くしました」

内田裕也が1976年に出した初の単行本「俺はロッキンローラー」には、子どもの頃に思っていた「カッコイイニイチャン」になりたいという、素朴な憧れが語られている。 「見てるだけで、えれェカッコイイとかオモシロイなアッってのが、Rockなんだと思う」 大阪の堺市で裕福な家庭に育った子どもの頃、ユーヤさんの環境が大きく変わったのは、家の経済状態が次第に悪化していったからだった。...

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中島みゆきが「狼になりたい」に描いた人間模様のやるせなさ~〈吐きすて〉の歌の系譜④

1979年にリリースされた中島みゆきのアルバム『親愛なる者へ』の収録曲に、24時間営業の飲食店を舞台にした『狼になりたい』という歌がある。 「夜明け間際の吉野屋では」と始まるこの曲を、ぼくが初めてNHKのスタジオで聴いたのは、アルバムが発売になる直前だった。 歌い出しの1行目の歌詞で驚かされると同時に、心のなかで快哉をあげたことを覚えている。...

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エレファントカシマシの「ファイティングマン」と「今宵の月のように」~吐きすての歌の系譜⑤

エレファントカシマシの宮本浩次がテレビ番組のなかで、こんな内容のことを言っていたという。 ボブ・ディランが「ライクアローリングストーン」を、”ライカロリンストッ”って吐きすてるように歌うたび、涙がブワーって出てきたんだ。 初期のボブ・ディランは〈吐きすて〉の歌の原点ともいうべき、新しいタイプのシンガー・ソングライターとして登場してきた。...

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ジャニス・ジョプリンの「ムーヴ・オーヴァー」をカヴァーしたGLIM SPANKY(グリム・スパンキー)~〈吐きすて〉の歌の系譜⑥

ジャニス・ジョプリンの遺作となったアルバム『パール』。その1曲目を飾っていた「ムーヴ・オーヴァー」は彼女の代表曲のひとつとして知られる。 終わったんだってあんた、言ったわよね もう、私たちは終わったんだって なのにどうして私のそばをうろついてるの ねえ、どっかへ消えてよ 自分から別れておきながら、なぜかそばをうろついている元彼に対して、ジャニスは「Move Over」という言葉を言い放つ。...

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人間の本質に由来する愚かさ、醜さ、滑稽さ、哀れさを歌う泉谷しげる~〈吐きすて〉の歌の系譜⑦

『黄金狂時代』は泉谷しげるの通算5枚目のアルバムで、1974年10月10日にエレック・レコードより発売になった。 そこからシングル・カットされた「眠れない夜」が出たのは10月25日だったが、翌月の音楽業界誌の週刊ミュージック・ラボ(11月18日号)には、泉谷らしいユーモアのある広告が掲載された。...

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吉田拓郎と岡本おさみとの闘争から生まれた「望みを捨てろ」~〈吐きすて〉の歌の系譜⑧

岡本おさみとの協同によるソング・ライティングについて、吉田拓郎は「あの頃いつも俺は不愉快だった(笑)」と述べていた。 ここでいう「あの頃」とは、岡本とのコンビを組んでつくった「旅の宿」がヒットした1972年から、森進一に書き下ろした「襟裳岬」が日本レコード大賞を受賞した1974年頃までのことを指している。...

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主人公のナミとして吐きすてるように歌ったという梶芽衣子の「怨み節」~〈吐きすて〉の歌の系譜⑨

女優の梶芽衣子が歌って代表曲となった「怨み節」は、1972年に製作された映画『女囚701号 さそり』の劇中歌としてつくられた。 しかし8月25日に映画が公開されたときには、まだレコード化されていなかった。 第1作の『女囚701号 さそり』に出演の依頼があった時、梶芽衣子は「女囚なんか嫌よ」と台本を返したという。...

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追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃

ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者が持っている本質によるものなのだろう。 テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月、18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。...

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テンプターズの「エメラルドの伝説」が誕生したことで頂点に達するグループ・サウンズのブーム

1968年3月に発売した第2弾シングル「神様おねがい」のヒットによって、テンプターズは先行していたタイガースのライバル的なポジションを得て、熱狂的なグループ・サウンズのブームの先頭に並んだ。 そして圧倒的な人気だったタイガースの沢田研二(ジュリー)に対抗できる、アイドル的なスターになったのがヴォーカルの萩原健一、ショーケンだった。...

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音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツと、スター街道を駆け抜けた植木等の”変な歌”①「スーダラ節」

1960年代初頭からテレビで人気が上昇していたクレイジーキャッツだが、最初の爆発は植木等の歌った「スーダラ節」の大ヒットから始まった。 そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていったのである。...

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クレージーキャッツの”変な歌”②PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌

青島幸男が書いた「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」によると、「スーダラ節」でレコードを出そうとしたときに、ふたつの選択肢があったという。 プロデューサーの渡邊晋との打ち合わせの席では当初、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから常套的に”良い歌を作る”という案と、はなから割りきって”売れる歌を作る”という案が検討された。 そして選ばれたのは当然ながら、”売れる歌を作る”のほうだった。...

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