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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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なかにし礼が作詞家になった出世作~菅原洋一「知りたくないの」

立教大学の学生だった中西禮三(後の作詞家・作家 なかにし礼)はシャンソン喫茶でアルバイトするようになり、美輪明宏がホームグラウンドにしていたことで知られるシャンソン喫茶「銀巴里」へも、1950年代の後半から熱心に通うようになっていた。 そしていつしかシャンソン歌手のために訳詞を手がけるようになり、次々に仕事を頼まれていったのだが、それは生活のためのアルバイトであった。...

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なかにし礼が失意の底で遺言歌として書いた「さくらの唄」は美空ひばりの絶唱となったが‥‥

美空ひばりの27回忌を迎える前の日、東京・港区にある日本コロムビアのスタジオで、マスターテープから起こしたばかりの状態にあるハイレゾ音源で、名曲の数々を聴かせていただく機会に恵まれた。 これまで経験したことのない最高レベルの状態で聴いた歌声の数々のなかでも、とりわけ素晴らしかったのが1976年に録音された「さくらの唄」だった。...

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久世光彦特集~フランスの漫画祭で顕彰された昭和の天才絵師・上村一夫が歌う「坊やお空をごらん」

フランスのアングレーム市で開かれるアングレーム国際漫画祭は、毎年1月末に開催されるヨーロッパ最大の漫画の祭典だという。 数百人にのぼる漫画作家と20万人以上の漫画ファンが世界中から集まり、数々の展覧会やイベントが開かれてにぎわう。 そし優れた作品に対して最優秀作品賞の表彰が行われるほか、漫画の発展に寄与した作家にグランプリに選ばれる。...

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忌野清志郎がNHKホールで行われた『どんと 紅白』のトリで歌った「孤独な詩人」

どんとがハワイで急逝したのは2000年の1月28日、まだ37歳という若さであった。 訃報を聞いた忌野清志郎はレギュラーで書いていた雑誌に、こんな追悼文を寄せている。(注1) 雰囲気のあるいい奴だった。俺の音楽の理解者だった。 もっとたくさん会えば良かったが今はもう遠い。今年も年賀状が届いたばかりだというのに…。 さようなら、どんと。安らかに眠ってくれ。...

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<音楽史のレジェンド>日本語のロックをバックビートでうたった南正人のアルバム『回帰線』

2021年1月7日の夜、シンガーソングライターの南正人が横浜市内のライヴハウス「THUMBS UP」で、本番中に意識を失って亡くなったというニュースが、音楽関係者の間をかけめぐった。 プロとしての音楽活動が50年を超えていたレジェンドは、享年76にして帰らぬひとになったのである。 そのことをぼくが知ったのは、湯川れいこさんが投降したTwitterからだった。...

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中島みゆきが「狼になりたい」に描いた人間模様のやるせなさ~〈吐きすて〉の歌の系譜④

1979年にリリースされた中島みゆきのアルバム『親愛なる者へ』の収録曲に、24時間営業の飲食店を舞台にした『狼になりたい』という歌がある。 「♫ 夜明け間際の吉野屋では」と始まるこの曲を、ぼくが初めてNHKのスタジオで聴いたのは、アルバムが発売になる直前だった。 歌い出しの1行目の歌詞で驚かされると同時に、心のなかで快哉をあげたことを覚えている。...

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完璧な映画を目指したチャップリンによって生まれた「スマイル」

新型コロナウイルス感染症の問題が世の中に深刻な影を落とし始めて間もない2020年の春、サックス奏者の渡辺貞夫が自宅で撮影・録音したパフォーマンスを公開した。 演奏されたのは誰もが一度は耳にしたことがあるであろうスタンダード・ナンバー「スマイル」だ。 「スマイル」は1936年に公開されたチャップリンの映画『モダン・タイムス』の劇中音楽として生まれた。...

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追悼・遠藤賢司~確固たる意志を持って”純音楽”をめざした孤高の一匹オオカミ

〈写真・1971年中津川全日本フォークジャンボリーにおけるバックステップの遠藤賢司 撮影・井出情児〉 1969年10月28日、お茶の水にあった全電通会館ホールで日大闘争救援会が主催するコンサート、『ロックはバリケードをめざす』が開催された。 出演したのは遠藤賢司、早川義夫、ばれんたいん・ぶるー、ブラインド・レモン・ジェファーソンなどである。...

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お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹

2015年4月13日、この日に還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。 それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲「蜃気楼」にもトライしている。 この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっていた。 そして『心響...

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追悼・萩原健一~ショーケンが歌った「神様お願い」から始まったテンプターズの快進撃

ビートルズの来日公演に影響を受けたグループサウンズのブームの中に、ロカビリー時代の反社会的で危険な香りを持ち込んだのは、萩原健一(ショーケン)という稀有な表現者が持っている本質によるものなのだろう。 テンプターズの「神様お願い」が発表された1968年3月、18歳のショーケンの歌声やその立ち居振る舞いからは、ロックンロールの初期衝動とも重なる不良っぽさがブラウン管を通してでも伝わってきた。...

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久世光彦と阿久悠が作った沢田研二主演のドラマから生まれた「時の過ぎゆくままに」

1975年にオンエアされたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』のテーマとして作られた「時の過ぎゆくままに」は、大ヒットを記録して沢田研二の代表作になった。 TBSの演出家でプロデューサーだった久世光彦は、沢田研二の魅力を最大限に引き立てるべく、彼が主演するドラマを企画した。...

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知られざる日本の名曲シリーズ~画期的な作曲コンテストから誕生した「片想い」

最初に「片想い」をオリジナル曲として唄ったのは、23歳の槇みちるだった。 大阪出身の彼女は渡辺プロにスカウトされて歌手になり、1965年にビクターから洋楽カバーの「可愛いマリア」でデビューを果たす。 それは渡辺プロにとって、ザ・ピーナッツから始まった王道ともいえる手法だった。 素質ありと見なされた新人歌手は、まず洋楽のカバーポップスでデビューする。...

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ロックンロールがやってきた時代に生まれた西城秀樹

ロックンロールの幕開けを象徴する映画として知られるアメリカ映画『暴力教室』が、日本で公開されたのは1955年8月のことだった。 しかし子どもへの悪影響を危惧した教育団体やPTAなどから、各地で上映禁止運動が起こる。 そうした騒ぎがマスメディアに取り上げられて、ロックは日本でも社会現象に押し上げられていった。 西城秀樹の誕生日は1955年4月13日、まさにロックが日本に上陸した時代に生まれた。...

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スーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録

日本のエンターテイメントビジネスにおいて、レジェンドと呼べる存在として筆頭にあげられるのは、1971年のソロ・デビューから50周年を迎えた沢田研二だろう。 彼はソロになる前、GSのザ・タイガースの時代から「ジュリー」の愛称で呼ばれて、若い女性の間では圧倒的に人気があった。...

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忌野清志郎が歌ってスタンダードになった日本語詞の「デイドリーム・ビリーバー」

1964年の初めからビートルズが全米を制覇して空前のブームを巻き起こしたことに対抗して、アメリカのエンターテインメント業界が用意したのがモンキーズだった。 ビートルズのようなバンド・スタイルのロック・グループが歌うポップスをテレビ番組と融合させて、新しいスターを作ろうとオーディションで選出された4人からなるモンキーズは、1966年8月に「恋の終列車 」をリリースしてデビューした。...

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沢田研二が27歳で挑んだ歴史的な『セブンスターショー』の映像

テレビドラマのヒットメーカーとして知られていたTBSの演出家でプロデューサーの久世光彦は、グループ・サウンズのタイガースからソロになって成功した沢田研二にすっかり惚れ込んでいた。 だからこそ時代の寵児として輝いているときに、それまでにないドラマを制作して、映像作品を後世に残そうとしたのである。...

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ローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズの死を悼んだ追憶のハイドパーク

ロンドン中心部に位置するハイド・パークに1969年7月5日、全英中から25万人以上もの若者が集まってきた。 その日はローリング・ストーンズにとって丸2年ぶりとなるコンサートが、フリー・ライブのかたちで予定されていた。 ギタリストであり創設者でもあったブライアン・ジョーンズが脱退し、新たなギタリストにミック・テイラーが加入することになったのでお披露目をかねていた。...

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1970年8月5日にアングラ・レコード・クラブから発売された記念すべき1枚のアルバム『はっぴいえんど』

1970年6月1日にエレックレコードから発売された吉田拓郎のシングル盤「イメージの詩」と、B面の「マークⅡ」が口コミから評判になって、深夜放送など一部のラジオでオンエアされるようになったのは盛夏に入ってからだった。...

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濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ

”ロックは英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか”という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、”ほんもののロック”を目指したロック・コンサートが、様々な会場で行われていた。 そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。...

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「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」と美空ひばりが歌った反戦と平和の歌

1974年に「一本の鉛筆」という歌が誕生したのは、1945年8月6日に原子爆弾によって焦土となった広島で、復興と平和をテーマにして始まった音楽祭がきっかけだった。 美空ひばりには幼少時に父が徴兵された後、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中をかろうじて生き延びてきたという、横浜大空襲の体験が生々しく記憶されていた。 かろうじて避難した手作りの防空壕では、生き地獄のような恐怖を味わった。...

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