レッキング・クルーの一員からスタートして偉大なるカントリー・シンガーとなったグレン・キャンベル
カントリー・ミュージックの大物アーティスト、グレン・キャンベルが81才で亡くなったのは2017年8月8日のことだった。 訃報を聞いたキャロル・キングはすぐに、追悼メッセージをツイッターで寄せた。 「RIP グレン・キャンベル。偉大なるシンガーで曲も書けるミュージシャン、そして素晴らしい楽曲を選んでカヴァーした人物」 RIP Glen Campbell – a great singer and...
View Article黒柳徹子が独特な持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』
耳で歌を聴くだけではなく、目でも音楽を楽しむ。 そんな生活が身近になったのは、1960年代前半にテレビが一般家庭にまで普及したおかげだった。 衣食住の心配が少なくなり、眠る時も安心して夢を見られるー。 戦争のない平和な時代がやって来たことで、若者たちにとって歌や音楽が急に身近なものになった。 1961年4月8日の夜10時、NHK総合テレビで伝説の番組が始まった。...
View Article私たちは手をとりあって、よくわからない〈テレビ〉という暗闇の中を進んでいった黒柳徹子~
黒柳徹子には小学校のときから、なりたいものがいろいろあった。バレリーナ、幼稚園の保母さん、従軍看護婦、スパイ、競馬の騎手。 だが香蘭女学校を卒業後にはオペラ歌手になると、きちんと目標をさだめて東洋音楽大学声楽科へ入学した。 東京音楽学校でバイオリンとクラシック音楽を学んだ父の黒柳守綱は、昭和12年から5年間に渡って新交響楽団のコンサートマスターを務めたが、戦争のためにシベリア抑留を余儀なくされた。...
View Article日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による歌謡曲~「世迷い言」
日吉ミミの「世迷い言」は昔から伝わってきた「タケヤブヤケタ(竹藪焼けた)」や、「タイヤキヤイタ(たい焼き焼いた)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。...
View Articleロビー・ロバートソンが自伝で明らかにした「ザ・ウェイト」誕生の経緯と、”ナザレス”という歌詞が意味するもの
ザ・バンドの「ザ・ウェイト(The Weight)」は1969年に発表された当時から、歌詞が難解だという声が多く、言わんとすることがよくわからないとも言われてきた。 それは「ナザレス」とか「モーゼス」とか、あるいは「ルカ」といったキリスト教にまつわるような固有名詞が、歌詞の中に散らばっていたからだった。 たしかに歌いだしの1行目から、早くも「♫ I pulled into...
View Article唄を忘れたかなりやだった27歳の西條八十は、忘れた唄を思ひだして詩人となった
地主の息子で石鹸製造業や販売でも財を成した父親が亡くなったとき、西條家の全財産を相続したのは早稲田中学に通う学生だった17歳の西條八十だった。 三男だったにもかかわらず家督相続人に任命されたのは、長男がまったく信用のおけない道楽息子であったからだ。...
View Articleかつての栄光の歌手という道が始まった~坂本九の27歳
エルヴィス・プレスリーに憧れてロックンロールに目覚めた坂本九が、バンドボーイを振り出しに米軍キャンプやジャズ喫茶でのライブで経験を積み、「日劇ウェスタンカーニバル」の舞台に立ったのは1958年の夏のことだ。 そのとき18歳、歌ったのはリトル・リチャードのカヴァー曲だった「センド・ミー・サム・ラヴィン」。...
View Article「今まで聴いた中で一番くだらない歌詞だ」と言われた歌を全米1位の大ヒット曲にしたレス・ポールのマジック
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン(How High the Moon)」は、1940年にミュージカル『Two For The Show』のために書かれた曲だったが、レス・ポールは自分の作る最新のギター・サウンドと、メリーの素直で温かみのあるヴォーカルの組み合わせで、世界をアッと言わせる事ができると確信していた。...
View Articleレス・ポールによる飾り気のないアレンジで劇的な変貌を遂げた「ヴァイア・コン・ディオス」
常識破りのギタリストだったレス・ポールは、新しいサウンドの探求者で発明家でもあった。 彼の名前が付けられたエレキギター、ギブソンのレスポール・モデルは今もなお永遠の輝きを放っている。 彼が始めたテープレコーダーによる多重録音も、今では世界中のレコーディングで普通に行われている。 多重録音されたギターの音に電子的なエコーをかけて、そのサウンドを何倍も、何十倍も魅力的なものにしたのもレス・ポールだ。...
View Articleテレビ出演で猟犬に向かって「ハウンド・ドッグ」を歌わせられたエルヴィスの屈辱
1950年代半ば、アメリカでは一般家庭にテレビの普及が進んでいた。 そこで、エルヴィスのマネージメントを手がけるパーカー大佐は、新しいメディアの影響力を最大限に利用しようと考えた。 最初のテレビ出演が行われたのは1956年1月28日、メジャーのRCAに移籍して最初のシングル「ハートブレイク・ホテル」が発売された翌日のことだ。...
View Article青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」
青山ミチという歌手がいた。 アメリカの影を背負った生まれで、才能はあったが不器用で、行動が危なっかしい少女歌手だった。 わずか13歳で和製ポップスでデビューしたがヒットに恵まれず、「ミッチー音頭」などで注目されたが、いつしか暗い方向へと流されていった。 そんななかで唯一、賛美歌のような「叱らないで」が1968年に少しだけヒットした。...
View Article27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈前編〉~「ポリープを切ることで私の歌の命まで切ることになった」
1969年9月に「新宿の女」でデビューした藤圭子は、演歌で日本語のブルースとロックを体現していたシンガーだった。 ファースト・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』は1970年3月に発売されると、まもなくオリコンのアルバムチャートで1位を記録した。...
View Article27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」
1979年の10月、作家の沢木耕太郎は翌年から朝日新聞に連載するノンフィクションを執筆するため、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在していた。 そんなある日、執筆に疲れて部屋のテレビをつけると、「藤圭子引退!」のニュースが大きく取り上げられた。 それに強い衝撃を受けた沢木は即座に山を降りて、藤圭子に連絡を取ってインタビューをさせてもらう約束を取りつける。...
View Article藤圭子 ~日本語でブルースを体現するロック世代のシンガーによる「生命ぎりぎり」
藤圭子がデビューした1969年、日本の音楽シーンには明らかな傾向があった。 カルメン・マキの「時には母のない子のように」を筆頭に、ちあきなおみの「雨の慕情」、加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」など、若い女性シンガーが歌う暗い曲調の歌がヒットしていたのだ。 それらの歌の主人公に共通するのは、”行き場のない孤独と切なさ”だった。...
View Article日本のオリジナルR&B「グットナイト・ベイビー」と、ド演歌の二重唱「昭和枯れすすき」を作曲してヒットさせたむつひろしとは?
キングトーンズの「グットナイト・ベイビー」がアメリカで発売になり、全米R&B部門で48位にランクされたのは1969年のことだ。 基本的に黒人音楽しかランクされない「Rhythm&Blues」のカテゴリーで、日本のアーティストがチャート・インしたのは、1963年に全米HOT100でも1位に輝いた「SUKIYAKI(スキヤキ)」の坂本九に続く出来事だった。...
View Articleむつひろしと浅川マキのソングライティングによる「ちっちゃな時から」
2015年にオネストジョンというイギリスのレーベルから、アルバム『MAKI ASAKAWA』が発売になった。 この浅川マキのUK盤を企画して発売にこぎつけたのは、ロンドン大学の教授でもあるアラン・カミングス。 彼が書いた詳細なライナーノーツにはこんな紹介が出てくる。...
View Article知られざる名曲「丘の上のエンジェル」①~それはザ・ゴールデン・カップスのデビューから始まった~
1960年代後半に巻き起こったGSブームでは数百ともいわれるバンドが、全国各地でプロとして演奏活動をしていたといわれる。 そのなかにあって傑出した存在だったのが、横浜のザ・ゴールデン・カップスである。 ゴールデン・カップスが結成されたいきさつについて、ギタリストのエディ藩はこう語っている。...
View Article知られざる名曲「丘の上のエンジェル」②~スタンダード・ソングになったゴールデン・カップスの「長い髪の少女」
ザ・ゴールデン・カップスは英語の曲しか歌ってこなかったので、ヴォーカリストでリーダーだったデイヴ平尾も、デビュー曲「いとしのジザベル」では戸惑ってしまったそうだ。 だが坂本九の歌唱法を参考にして、なんとか日本語でもスムーズに歌うことが出来た。 しかし1967年6月15日に発売された「いとしのジザベル」は小ヒットにとどまり、前評判が高くて注目されていた割に、今ひとつという結果に終わった。...
View Articleエディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」③~ゴールデン・カップスの最後
レギュラーで出演していた店の名前をそのままバンド名にして1967年にデビューしたザ・ゴールデン・カップスは、もともと志向していたR&Bではなく、ブームになっていたグループサウンズでヒット曲を出すグループになった。 だが本牧のクラブ”ゴールデン・カップ”に帰ってくると、以前と変わらずに本格的なR&Bを演っていた。...
View Articleエディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」④~アメリカ軍兵士と日本人女性の間に生まれた赤ちゃんたちに捧げる鎮魂の歌~
エディ藩はザ・ゴールデン・カップスが解散した1972年以後もギタリスト、ヴォーカリストとして音楽活動を続けて現在に至っている。 1981年にソロで発表した「横浜ホンキートンク・ブルース」は派手なヒットにはならなかったが、さまざまなシンガーにカヴァーされてスタンダード・ソングになっている。 そんなエディ藩が1997年に発表したにもかかわらず、人前では歌うことなく”封印”していたという歌がある。...
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