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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”①浅川マキの世界「かもめ」

浅川マキが2010年に突然のように亡くなった後、音楽プロデューサーの寺本幸司はCDのライナーノーツでこう述べている。 蠍(さそり)座で、寺山修司構成演出で、浅川マキ公演をやった。 毎夜10時開演というライブで、かなりの冒険で心配だった。 でも、蓋を開けたら、ドアが閉まらないほどの連日満員で、成功した公演となった。 (「Long Good-bye to MAKI」ライナーノーツ)...

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変な歌や訳がわからない歌の代表格、あがた森魚の「赤色エレジー」

どういうわけか”変な歌”や訳がわからない歌が、突如として流行するということが、昭和の時代にはしばしば起こった。 訳が分からないのに忘れられない、妙に印象に残ってしまう歌の代表格が、あがた森魚の「赤色エレジー」である。...

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クリエイティブな空気のなかでレコーディングが行われた矢沢永吉の「時間よ止まれ」

1977年の夏に流れた資生堂のキャンペーン「サクセス、サクセス、」で、コピーを書いたのはコピーライターの小野田隆雄だった。 そこから生まれたのが作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童による「サクセス」である。 演奏はダウン・タウン・ブギウギ・バンド、編曲はメンバーだったキーボーディストの千野秀一、歌ったのは宇崎竜童。...

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ロック的な衝動を知っている西城秀樹だから見事に唄いきった「ちぎれた愛」

欧米の音楽シーンがロックの時代に入ったことの影響を受けて始まった日本の新しい歌謡曲は、1960年代のエレキブームやグループサウンズを経て、1970年代に入ったところでソングライターたちの顔ぶれが一気に若手中心になり、そこから百花繚乱の全盛期を迎えていくことになった。...

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久世光彦と阿久悠が作った沢田研二主演のドラマから生まれた「時の過ぎゆくままに」

1975年にオンエアされたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』のテーマとして作られた「時の過ぎゆくままに」は、大ヒットを記録して沢田研二の代表作になった。 TBSの演出家でプロデューサーだった久世光彦は、沢田研二の魅力を最大限に引き立てるべく、彼が主演するドラマを企画した。...

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トム・ペティ追悼~ステージで使用したギター数本と衣装を引き換えに手に入れたリッケンバッカー

2017年10月1日、トム・ペティがカリフォルニア州マリブの自宅で意識不明の状態で発見され、UCLAサンタ・モニカ病院に搬送されたと報じられた。 その後の報道によればトム・ペティはUCLAサンタモニカ病院で生命維持装置につながれたが、脳の活動はなく、翌2日朝には牧師が呼ばれて家族は「蘇生処置不要」と決断、生命維持装置を外すことになったという。享年66。...

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敗戦に沈む日本人に活力を与えた、陽気なうた──笠置シヅ子「東京ブギウギ」

アメリカ軍の空爆ですっかり焼け野原になった日本で、何もかも失って餓えずに生きていくことだけで精一杯であった人々を励ましたのは、敵国だったアメリカで生まれた陽気なビートだった。 作曲家の服部良一は敗戦の悲嘆に沈んでいる日本人に、力強くて活力になる音楽を提供することが音楽家の仕事だと考えていた。...

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モンタレーが生んだ1967年の伝説~ジャニス・ジョップリンの神がかりのような熱唱 

1967年6月16日から18日にかけて、カリフォルニア州サンフランシスコ市の南に位置する港町のモンタレーで、ロック史における伝説となったモンタレー・ポップ・フェスティバルが開かれた。...

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9月4日に行われたビートルズのレコーディングで用意されたデビュー曲を「クズだと思う」と言ったジョン・レノン

リヴァプールでブライアン・エプスタインが経営するレコードショップのNEMS2号店に、ビートルズの「マイ・ボニー」がほしいという10代の若者がやって来たのは1961年10月だった。 ビートルズも「マイ・ボニー」も知らなかったブライアンは、その若者が欲しがっていたのはドイツのポリドール・レコードが出したトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」で、イギリスのビートルズが演奏を担当していることを調べあげた。...

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中原理恵「東京ららばい」のアレンジを彩っていたサンタ・エスメラルダのフレーバー

桑名正博のデビュー曲「哀愁トゥナイト」を作り終えた1977年2月、筒美京平と松本隆はリオのカーニバル観光を中心した南米旅行に出かけている。 引く手あまただったヒットメーカーの作曲家と作詞家が、まるまる1ヵ月も観光旅行に出かけるというのはめずらしいことだった。 それから1年後の1978年3月21日に発売された中原理恵の「東京ららばい」は、その南米旅行のおかげもあってできあがったという。...

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来日公演でジーン・ヴィンセントが歌った「オーバー・ザ・レインボウ」の静かな衝撃

映画『女はそれを我慢できない』が1957年に日本で公開された時、たくさんの若者たちの目を釘付けにしたのは、動くロックンロールの強烈な衝撃だった。 なかでも評判になったのが、ジーン・ヴィンセントとブルー・キャップスのパフォーマンスだ。 日本のロカビリアンたちは映画『女はそれを我慢できない』の演奏シーンを真似るだけでなく、ファッションもこぞって取り入れている。...

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加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生

京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。 龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。...

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東京から来たミュータント~きたやまおさむが出会った頃の加藤和彦

ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦が、当時は誰も思いつかなかったようなナンセンスでコミカルな歌「帰って来たヨッパライ」をつくったことによって、200万枚を軽く超える記録的なヒットを放ったのは20歳のときである。 そこから遡ること2年半前、京都府立医科大学の学生だった北山修は、雑誌「メンズ・クラブ」の読者投稿欄に掲載された、加藤からの呼びかけに目をとめた。...

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加藤和彦が「ミカと結婚するから、その祝いに作ったことにしよう」と言った歌~「あの素晴しい愛をもう一度」

ザ・フォーク・クルセダース時代からパートナーを組んでいた加藤和彦と北山修(きたやまおさむ)、この二人のソングライターが作った歌の中で、もっとも知られる代表曲が「あの素晴しい愛をもう一度」だろう。 この歌が誕生したことについては、二つの異なる説が存在していた。...

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1970年に北米をツアーで回った加藤和彦の体験から生まれた「あの素晴しい愛をもう一度」

1年間だけという約束でメジャー・デビューしたザ・フォーク・クルセダースは、約束通りデビューから1年後の1968年10月に解散した。 北山修は京都で医学生の生活に戻り、加藤和彦はアメリカのサンフランシスコへと旅立った。 やめた後はブラブラして、20歳ちょっとの若者にしては分不相応な印税が入ってきたから、それで初めてアメリカに行ったんですよね。...

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追悼・加藤和彦~1968年10月17日のフォークル解散コンサートと幻のアルバム『児雷也』

ザ・フォーク・クルセダーズが大阪フェスティバルホールでの公演と、日本テレビ系『11PM』に出演したのを最後に解散したのは、1968年10月17日のことだ。 彼らは音楽シーンに新風を巻き起こしただけでなく、若者たちが自分たちの意志で、自由に音楽を楽しんだり作ったり出来るということを証明した。 その意味では日本の音楽史に残る、革命的かつ歴史的なバンドだった。...

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「イムジン河」のかわりに加藤和彦が作った「悲しくてやりきれない」の奥深さ

ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」はシングル盤が発売される前日、東芝レコードの判断によって発売中止が決まった。 レコードは店頭に並ぶことなく回収されて、すべて廃棄処分になった。 それに代わって急いで作られた新曲が「悲しくてやりきれない」だったという話は広く知られている。...

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発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった

1967年のクリスマスにレコードが発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」が驚異的なヒットを記録し、京都のアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズは日本中から注目される存在になった。 そしてプロとして1年間だけ活動する道を選んだとき、フォークルのセカンド・シングルに決まったのは「イムジン河」だった。...

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フランスに生まれた反戦歌の「大統領殿」をフォークル時代から歌い継いできた加藤和彦

2002年にザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の大ファンだったTHE ALFEEの坂崎幸之助を加えて、加藤和彦と北山修が新たなフォークルを結成したのはアルバム『戦争と平和』を制作するためだった。 戦争と平和をテーマにしたこのアルバムで、加藤和彦は美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を取り上げてうたっている。その意外性について坂崎がインタビューに答えてこう語っていた。   ――...

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イギリスでも注目されていた日本のロック、サディスティック・ミカ・バンドの全英ツアー

1968年10月のザ・フォーク・クルセダーズ解散後、69年のソロ・アルバム『ぼくのそばにおいでよ』に続いて、71年の10月に『スーパー・ガス』を出した頃から、加藤和彦はほんとうのロックバンドをやろうと構想を練っていた。 加藤和彦にとって”ロックとは既成事実に対する反逆”であり、その意味ではザ・フォーク・クルセダーズもロックだった。 国が違うけど、ボサノヴァも僕にとってはロックなんだよね。...

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