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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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T・レックスの初来日公演時に日本でレコーディングされた「20センチュリー・ボーイ」

1968年の秋から東芝音楽工業の洋楽部に配属された新入社員の石坂敬一は、アシスタント・ディレクターとして仕事を始めたとき、まずは印象に残る日本語のタイトル、邦題を付けることを強く意識したという。 邦題のタイトルについては学生時代から考えていたが、書籍や映画からヒントを得ることが多かった。 好きな作家は谷崎潤一郎、三島由紀夫、澁澤龍彦、種村季広など、耽美主義へのあこがれが顕著だった。...

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27歳のエルトン・ジョンと34歳のジョン・レノン、マジソン・スクエア・ガーデンでの共演

1974年の3月25日に27歳になったエルトン・ジョンは、その年11月28日に行なわれたマジソン・スクエア・ガーデンでのコンサートについて、こう振り返っている。 「誰もがそれを信じられなかったくらい、本当に感動的な夜だったよ」 アンコールに参加してくれたジョン・レノンが、一緒に3曲も演奏してくれたのだから無理もない。...

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ジョージ・ハリスンが「ルーシー」という女性名をつけた伝説のギターの身代金

ビンテージギターの第一人者として知られるノーマン・ハリスが書き下ろした自伝には、エリック・クラプトンがビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」で弾いたギターにまつわるエピソードも登場する。...

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高額所得者に対するあまりにも高い税率を諷刺した、ジョージ・ハリスンの「タックスマン」

ビートルズのジョージ・ハリスンが、英国の税金制度に疑問を持ったのは20代の半ばにさしかかった頃のことだ。1965年に多大な外貨を獲得した働きによって、ビートルズはイギリスから大英帝国勲章MBEを受勲したが、高額所得者として当時の税制における最高税率をかけられた。...

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追悼・岡本おさみ① 詩集『ビートルズが教えてくれた』から生まれた森進一の「襟裳岬」

ビクターレコードの創立50周年を記念する企画で、フォークソング・ブームを巻き起こしていたシンガー・ソングライターの吉田拓郎と作詞家の岡本おさみのコンビよって、若くして演歌のスターになった森進一に、書き下ろしの新曲を作るという案が通った。 アイデアを提出したディレクターの高橋隆は、入社してからまもない新人でキャリアはないに等しかったが、企画者として制作を担当することになった。...

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追悼・岡本おさみ② 吉田拓郎の歌う力を得て生まれた「花嫁になる君に」と「ハイライト」

岡本おさみは大学を卒業してから数ヶ月、高校の教師をやったが耐えられずに退職し、ラジオ番組の構成を手がける仕事についた。 最初に携わったのは1966年に始まってまもなく、ニッポン放送の名物音楽番組となる『バイタリス・フォーク・ビレッジ』だった。 番組を開始するに当たってはアメリカのフォークソングを聴いて勉強し、日本の大学生たちがどんな歌をうたっているのかを取材した。...

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尾崎豊が生涯たった一度のテレビ出演で歌った「太陽の破片」

1983年にNHK-FMで夜10時から放送していた『サウンドストリート』は、月曜日:佐野元春、火曜日:坂本龍一、水曜日:甲斐よしひろ、木曜日:山下達郎、金曜日が渋谷陽一という、今から見れば豪華なDJが日替わりで音楽を紹介していた。 尾崎豊のデビュー曲「15の夜」がオンエアされたのは、シングル盤になることが決まって間もない頃だったと思う。...

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【追悼】ジェイク・H・コンセプション~ジャンルの壁を超えて日本の音楽史に数多の名曲を残した唯一無二のサックス奏者

歌謡曲が全盛だった1970年代から80年代にかけて、ジェイク・H・コンセプションは、サックスがフィーチャーされたヒット曲の過半数を、ひとりで吹いていたのではないかといわれるくらい、数えきれないほど多くのヒット曲で印象的な演奏を残している。 なかでも名演と呼ばれているのが、松田聖子の「SWEET MEMORIES」である。 そのときを振り返って、ジェイクはこう語っていた。 松田聖子さんの「SWEET...

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エルヴィス、キャッシュ、パーキンス、ルイスによる奇跡のセッション「ミリオンダラー・カルテット」

世界中にロックンロールが広まったエポック・メイキングな1956年も、そろそろ終わりが近づいてきた12月4日。 いくつもの偶然が重なりあったことから、音楽史に残る奇跡のセッションがメンフィスのスタジオで起こった。 全米の若者を熱狂の渦に巻き込んでいたエルヴィス・プレスリーが、インディーズ時代を過ごしたテネシー州メンフィスにある古巣のサン・レコードを、何の予告もなく訪れたのがことの始まりだった。...

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追悼・黒沢健一~純度の高いポップスを生みだして希有なメロディメーカーとの評価を得た音楽家

1968年に茨城県日立市に生まれた黒沢健一が、生涯を捧げるポップスに目覚めたのは幼稚園の頃だった。 彼には近くに住んでいる二人の従兄弟がいて、いつも家によく遊びに来てくれていたという。 ひとりはレッド・ツェッペリンやプログレッシブ・ロックが大好なブリティッシュ・ロック通で、もうひとりはビーチボーイズやイーグルスなどのアメリカンポップス好きだった。...

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ある夜、夢のなかで聴こえていた曲

U2のボノが27歳の誕生日を迎えてから1か月が過ぎた、1987年6月のことだった。 3月に発表された新作『ヨシュア・トゥリー(The Joshua Tree)』は、U2にとって5枚目のアルバムだったが、ターニングポイントとなった記念碑的な作品である。 サウンド面やメッセージ性において著しい成長を遂げたことによって、アルバムは発表と同時に各方面から絶賛されていた。...

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モンタレー・ポップ・フェスティバルが生んだ伝説~オーティスから清志郎に受け継がれた希望と勇気

ジャニスと同じくモンタレー・ポップ・フェスティバルでのパフォーマンスがきっかけとなって、白人の間にまで一挙に評価が高まったのが、ソウル・シンガーのオーティス・レディングだ。 モンタレー2日目となった6月17日の夜、ブッカー・T&the...

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サム・クックの素晴らしさを発見した日本のミュージシャンたち

アメリカのローリングストーン誌で2014年に180人の著名人の投票により選出された「偉大なシンガー100人」で、サム・クックはジョン・レノンやボブ・ディランよりも上の4位にランクされている。 だが日本では長い間、その音楽も、人となりも、紹介されることが少なかった。例えば1963年に出たレコードが当時の人気少女歌手、リトル・ペギー・マーチのB面だったことからもその扱いの軽さがわかる。...

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デビュー時にローリング・ストーンズから解雇された男~イアン・スチュワートの果たした偉大なる貢献

1962年10月から12月まで、キース・リチャーズとブライアン・ジョーンズは毎日8時間以上もレコードを聴いて、それを自分たちの楽器演奏で再現させようとしていた。 それは想像以上に厳しい作業だった。 彼らが手本にしていたアメリカのギタリストたち、ロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズ、エルモア・ジェームス、チャック・ベリーは、二人が見たこともない方法で演奏していたからだ。...

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大瀧詠一の「夢で逢えたら」が日本有数のスタンダード・ナンバーに至るまでの道のり

数多くのヒット曲を残した大瀧詠一の作品の中でも、広くカバーされてスタンダードになったという意味では、「夢で逢えたら」が代表曲に挙げられる。 この歌が誕生したのは1974年の秋に、CMソングを担当した「花王ドレッサー」がきっかけとなった。女性シンガーのアン・ルイスがひとこと、「ドレッサーね」と語るCFが好評で続編が作られることが決まった。 そしてアン・ルイスが「♪...

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大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニアを務めて、原盤制作から原盤管理までを行うことは、音楽の道を志した頃から抱いていた夢だった。 そして1975年5月25日、はっぴいえんど解散後の初ソロ・アルバム『NIAGARA...

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「過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ」~大瀧詠一

”歌謡曲の生みの親”と目されている作曲家の中山晋平と、”最高のポップス職人”を目指して生涯を全うした大瀧詠一が、実は同じ命日だったということに最近気がついた。 大瀧詠一にはこんな名言がある。 歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。...

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中島みゆきの「時代」が第6回「世界歌謡祭」で堂々のグランプリに輝いた日

日本のスタンダード・ソングとして知られる中島みゆきの「時代」は1975年11月16日、東京・日本武道館で開かれた『第6回世界歌謡祭』の本選で、メキシコからやって来たミスター・ロコの「ラッキー・マン」と並んでグランプリを受賞した。...

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中島みゆき「時代」①~初めて会った日にノートにメモした言葉「もう一人の私」

中島みゆきが「時代」を歌って世界歌謡祭のグランプリを獲得したのは、1975年11月16日夜のことだった。 筆者はそのニュースは翌17日の月曜日、ミュージック・ラボの社長でもあった音楽評論家の岡野弁から直に聞いた。 その時の筆者はミュージック・ラボに入社して2年目の営業部員で、主に広告をとってくる仕事をしていた。...

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中島みゆき「時代」②~ヤマハ音楽振興会の創始者だった恩人に捧げる言葉「DAD 川上源一」

第6回世界歌謡祭の舞台でグランプリを受賞して「時代」を歌う際に、中島みゆきはオーケストラの伴奏を制して自分のギター一本でうたった。 そこには自分を発掘してくれた恩人、川上源一へのお礼の気持ちが込められていたという。 ヤマハ音楽振興会の理事長の川上は戦時中に飛行機のプロペラを作っていた日本楽器(ヤマハ)を、戦後復興の中で世界一のピアノ・メーカーに成長させた経営者として知られている。...

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