「ガラスのジェネレーション さよならレボリューション」〜新しい時代の新しい音楽が聴こえてきた瞬間
レコードを聴くときの喜びは、まずジャケットのビジュアルから始まる。 そっとレコード盤を取り出して、歌詞カードを目にしながらターンテーブルに載せる。 最初の1行の歌詞を目にして、期待に胸がふくらんだ。 「ガラスのジェネレーション さよならレボリューション」 歌詞をざっと半分くらいまで目にして、回り始めているレコードの頭にそっと針を落ろす。...
View Articleストーンズが共同で暮らした汚い部屋から生まれたのは音楽への熱っぽい愛による合金だった
電気の配線はむき出しになっていた。壁紙は剥がれていたし、家具も壊れていた……。 汚れた皿が積み重なり、あちらこちらに空きビンが並び、音楽雑誌やレコードが床に無造作に置いてある……。 世界各地で開催されているローリング・ストーンズの展覧会では、セクションごとにテーマが設定されてあった。 そのなかでも強く印象に残った一つは、「イーディス・グローヴ」というセクションだった。...
View Article追悼・遠藤賢司~確固たる意志を持って”純音楽”をめざした孤高の一匹オオカミ
1969年10月28日、お茶の水にあった全電通会館ホールで日大闘争救援会が主催するコンサート『ロックはバリケードをめざす』が開催された。 出演したのは遠藤賢司、早川義夫、ばれんたいん・ぶるーなどである。 後にはっぴいえんどと名前を変える「ばれんたいん・ぶるー」は、まだ結成されたばかりでこれがデビュー・ライヴとなった。...
View Article「君をのせて」という歌の「君」とは作者の岩谷時子にとって越路吹雪だったのかもしれない…
「君をのせて」という歌は、1971年に行われたプロの作曲家コンクール「第3回 合歓ポピュラーフェスティバル’71」への参加曲としてつくられたものだ。 作曲したのはザ・ピーナッツの代表曲「恋のバカンス」や「ウナ・セラ・ディ東京」を書いた宮川泰で、それらのヒット曲は作詞家の岩谷時子とのコンビだった。 そして当初は千家春というペンネームになっていた作詞者が、実は岩谷の別名であったことがまもなく判明する。...
View Article天国へ逝った越路吹雪に「眠られぬ夜の長恨歌」を書かずにはいられなかった岩谷時子の孤独
越路吹雪は宝塚歌劇団の男役で戦中から戦後にかけて活躍した後に、女優としても歌手としても映画やテレビ、舞台の分野で日本のエンターテイメント界を牽引し続けた。 そして現役の大スターのまま燃え尽きるように、1980年11月7日の午後に56歳で亡くなった。 越路が亡くなった後、マネージャーだった岩谷時子は悲しみの底に沈んで、わずか35キロという体重になってしまった。...
View Article音楽と笑いでブームを巻き起こしたクレイジーキャッツと、スター街道を駆け抜けた植木等の”変な歌”①「スーダラ節」
1960年代初頭からテレビで人気が上昇していたクレイジーキャッツだが、最初の爆発は植木等の歌った「スーダラ節」の大ヒットから始まった。 そこから「ドント節」「五万節」「ハイそれまでヨ」「無責任一代男」とコミックソングがヒットし、加速度的に日本中にブームを巻き起こしていったのである。...
View Articleデュアン・オールマンはなぜウィルソン・ピケットを説得して「ヘイ・ジュード」をカヴァーさせたのか?
ビートルズの18枚目のシングル「ヘイ・ジュード」は1968年8月末に発売されると、9月28日には全米チャート1位になって9週間連続で首位の座をキープするという大ヒットを記録した。 この曲がヒットし始めた頃、アメリカ深南部のアラバマ州にある人口8,000人の田舎町、マッスルショールズにあるフェイム・スタジオで、サザン・ソウルの大物となっていたウィルソン・ピケットのレコーディングが行われていた。(注)...
View Article初来日の武道館でエリック・クラプトンが弾いていた幻のギブソン・エクスプローラー
いわゆる“3大ギタリスト”最後の大物として初来日したエリック・クラプトンのコンサートは、1974年10月31日の夜に日本武道館で初日の幕を開けた。 「ヤードバーズ」や「クリーム」での活躍後、約3年間もレコーディング、コンサート活動を中止していたために、当時のクラプトンは伝説の存在となっていた。...
View Article11月4日にニューヨークで開かれたボブ・ディランの初コンサートには53人の客しかいなかった
ボブ・ディランの初コンサートが行われたのは1961年の11月4日、場所はニューヨークのマンハッタン7番街と57丁目の一角を占めるカーネギー・ホールだった。 ただし、カーネギー・ホールとはいっても音楽の殿堂として知られている大ホールではなく、リハーサル・ルームのひとつ、チャプター・ホールが会場だった。 そして客席100のホールには53人の客しか入ってなかったとも言われる。...
View Article高倉健の代表曲「網走番外地」は、なぜ放送禁止歌として扱われていたのか
報道系、ドキュメンタリー系の番組を中心に数々の映像作品を手がけるほか、作家としての著書も数多くある森達也が書き記した「放送禁止歌」(知恵の森文庫)は、放送禁止歌のドキュメンタリー番組を制作する過程で出くわした問題や、その背景にある様々な事実にもとずいて書かれたノンフィクションだ。...
View Articleシャイな好青年だった高倉健はいつから寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか
スクリーンで演じた役のイメージがそうだったように、孤独の影をまとう男という生き方を貫いた高倉健は、私生活をまったく垣間見せないスターとして有名だった。 しかし訃報を聞いた美術家の横尾忠則氏は、世間的なイメージ以上に「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人でした」と語っていた。...
View Article追悼・りりィ~哀切きわまりない「心が痛い」と、ヒット曲の「私は泣いています」
1952年2月17日に福岡県に生まれたりりィは、ロシア系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフである。 朝鮮戦争に従軍した父は、彼女が生まれる前に戦死したと聞かされて、りりィは母と祖父の3人家族で育った。 しかし、その外見から「あいの子、あいの子」といじめられてきたという。 幼い頃から美貌であるがゆえに、周囲から妬まれてきたのだった。...
View Articleりりィが17歳の時に初めて書いた歌~「愛」に込められた孤独な少女の叫び
りりィのプロデューサーだった寺本幸司が、日本で最初のインデペンデント・レーベル「アビオン・レコード」の設立を企画したのは1966年のことだった。 その時期にゴスペルの影響を受けた歌手の浅川マキと出会った寺本は、和製ソウルを開拓しようと考えて、デビュー曲「東京挽歌」を制作してビクターレコードから発売した。...
View Articleローリング・ストーンズの曲からメロディを借りて絶望をうたったニール・ヤング
ニール・ヤングは1972年の11月12日、27歳の誕生日を迎えた。 その年の2月に発表したアルバム『ハーヴェスト(Harvest)』は、ナッシュビルのカントリー系のミュージシャンたちをバックにした作品だが、アルバムの年間チャートでは1位になって大ヒットを記録した。 またシングル・カットされた「孤独の旅路(Heart Of Gold...
View Article追悼・レオン・ラッセル~日本でもヒットした「タイトロープ」と桑田佳祐に受け継がれたロック
偉大なるミュージシャンが亡くなっても、その精神や楽曲が次の世代に受け継がれていくことで、音楽は生き続けることができる。 それを引き継いでいくことが、本当の意味で追悼ということにもなるのだろう。 1942年に南部のオクラホマ州に生まれたレオン・ラッセルは10代の半ばからロスアンゼルスに出て、セッション・ギタリストとしてその長いキャリアをスタートさせた。...
View Article追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン
「本日テナーの片山広明が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。」という情報が、地底レコードのホームページに掲載されたのは11月12日のことだ。 本日の朝だったそうです。最後は地底レコードでCDをリリースしていました、RCサクセション・渋さ知らズでも活躍したSAXの片山広明が亡くなったとの情報を夕方に知りブッタマゲました。...
View Article追悼・佐山雅弘~忌野清志郎の歌う「ヒム・フォー・ノーバディ」がレクイエムのように聴こえてくる
片山広明の訃報からわずか2日後の11月14日、やはり忌野清志郎に縁があったミュージシャンで療養中だった佐山雅弘が亡くなったというニュースが流れてきた。 享年64。 これもまた早すぎる死であり、残念としか言いようがない。 佐山は国立音楽大学作曲科在学中にピアニストとしての音楽活動を始めて、1984年からはリーダー作として20枚、PONTA BOXとして10枚のアルバムをリリースしてきた。...
View Article大村憲司のギターからは詩が聴こえる~ロックからブルースへと源流をさかのぼっていった音楽家
音楽史に残る屈指の名ギタリストといわれた大村憲司が、まだ49歳という働き盛りで亡くなったのは1998年11月18日のことだった。 それから20年以上が過ぎた今でも、彼のギターの響きが色褪せることはない。 急逝する2年前の10月30日、彼は日記を兼ねたノートにこんな文章を残していた。 もしあの’60年代の終わりから’70年代前半にかけての「ROCK...
View Article自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決を遂げた日に三島由紀夫が歌った「唐獅子牡丹」
三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地において東部方面総監室を占拠し、憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で、覚悟の自決を遂げたのは1970年11月25日のことだった。 何ごとにも几帳面だった三島由紀夫が事前に立てた計画は、小説や戯曲と同様に細部まで神経が行き届いていた。 およそ一年をかけて身辺をきれいに整理し、約束していた執筆や対談などの仕事を順に片付けていったのだ。...
View Article追悼・前田憲男~木の板に白と黒の鍵盤を書いた音が出ない”木(キ)ーボード”を弾いて練習していた天才少年
学生時代の宮川泰は京都の美術大学に籍を置きながら友達とバンド組んで、夜は大阪のナイトクラブなどで演奏していた。 どういうわけか宮川は人の演奏を真似て弾くのが得意で、誰か上手なピアニストがいると、その人の弾き方をそっくりに演奏するようになっていく。...
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