最初からヒットの道が閉ざされていた泉谷しげるの「黒いカバン」
岡本おさみが泉谷しげるに書いた「黒いカバン」の歌詞に、”ぼくは人間ですよ”というフレーズが出てくる。 そこには「いち庶民」の目線でうたのことばを書くという、岡本の詩人としての姿勢が反映されていた。 髪を長く伸ばしているというだけの理由で警察官から職務質問を受けることが、1970年代の初頭までは日常茶飯事のこととしてあった。...
View Article女優の大竹しのぶが泉谷しげると歌った「黒の舟唄」
「黒の舟唄」は野坂昭如によるオリジナルが1971年に発表された後、長谷川きよしにカヴァーされたことで知られるようになった。 さらには長谷川きよしの歌で知った加藤登紀子もカヴァーして巷に広まったが、’80年代に入って音楽シーンが様変わりし、昭和という時代が終わった頃には忘れられたような状態になっていた。...
View Articleロンドンに置き去りにされたウェイラーズ~27歳のボブ・マーリィ
27歳のボブ・マーリィが夏でも肌寒いロンドンで、夜の寒さに耐えていたのは1972年のことだった。 ピーター・トッシュとバニー・ウェイラー、そしてボブ・マーリィの3人からなるザ・ウェイラーズは、現在でも名曲との誉れ高い「ワン・ラブ(One Love)」をヒットさせるなどして、ジャマイカでは60年代の半ばから不動の人気を得ていた。...
View Article「なあ、泣くな、泣かないでくれ」とボブ・マーリーが祈る「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライブ録音
1975年の6月から始まった初のワールド・ツアーで、ボブ・マーリー&ウェイラーズは北米各地にある400人キャパのクラブを回って公演をした。 ところが6月18日にニューヨークのセントラルパークで開かれたサマーフェスティバルには、なんと1万5000人もの観衆が集まってきた。...
View Article昭和を駆け抜けた大スターの歌の原点にあったチェット・ベイカーへのリスペクト~「石原裕次郎 昭和太陽伝」
映画界にデビューして大スターになる前から、石原裕次郎は“クールジャズの象徴”と言われたトランペット奏者、チェット・ベイカーを愛聴していた。 日本では発売されていなかったレコードも、アメリカから輸入盤をとりよせて、ほとんどすべてを持っていたという。そしてとくに歌手として多大な影響を受けたのが、『チェット・ベイカー・シングス』というレコードだったと述べていた。...
View Article丸山明宏(美輪明宏)をスターにした「メケ・メケ」、その革新的な日本語詞
敗戦後の復興期にあった1951年、東京・銀座に開店したデラックス・キャバレーの『銀巴里』は、当時としては眩(まばゆ)いほどに豪華な内装のダンスホールだった。 美輪明宏が1955年にシャンソン喫茶へと衣替えした『銀巴里』で、専属歌手として歌うようになったのは開店から二年目、その当時は21歳で丸山明宏(以前は丸山臣吾)と名乗っていた。...
View Article「丸山くんの美しさは『天上界の美』ですよ」という名言を口にした三島由紀夫
1957年の正月、有楽町駅前にあった日劇ミュージックホールでは、美貌の青年歌手・丸山明宏(現・美輪明宏)が初出演して話題を集めていた。 ガウチョ(カウボーイ)の扮装でアルゼンチン・タンゴをうたい、中盤ではスペイン語の「ベサメ・ムーチョ」やシャンソンの「私のジゴロ」を披露し、最後はエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を熱唱した。...
View Articleリサイタルで完璧なオーケストラ・ヴァージョンとしてうたわれた美輪(丸山)明宏の「ヨイトマケの唄」
シャンソン歌手の美輪明宏は1957年にデビュー・シングル「メケ・メケ」をヒットさせてスターになったものの、同性愛者であることを隠さなかったためにバッシングにあって、その後はマスコミから締め出されて一旦は忘れられた状態になってしまった。 しかし1963年の秋に全曲を自作自演の曲で構成した「丸山明宏リサイタル」で見事にカムバックを飾ると、1965年には「ヨイトマケの唄」をヒットさせて完全復活した。...
View Articleお下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹
2015年4月13日、この日に還暦を迎えた西城秀樹は、それを記念したアルバム『心響 -KODOU-』をリリースした。 それまでに2度の脳梗塞を乗り越えて復活した西城は、過去のヒット作のセルフカバーに加えて、新曲「蜃気楼」にもトライしている。この作品は結果的に最後のアルバムになってしまったが、どの曲からもポジティブなチャレンジ精神が感じられて、実に力強い内容に仕上がっている。 意外なことに『心響...
View Articleロックンロールが日本にきた時代に生まれた西城秀樹
ロックンロール時代の幕開けを象徴する映画として知られる『暴力教室』が、日本で公開されたのは1955年8月のことだった。 しかし、子どもへの悪影響を危惧した教育団体やPTAなどから、各地で上映禁止運動が起こる。そうした騒ぎがマスメディアに取り上げられたために、ロックは日本でも社会現象に押し上げられていった。 西城秀樹の誕生日は1955年4月13日、まさにロックが日本に上陸した年に生まれた。...
View Articleロック的な衝動を知っている西城秀樹だから見事に唄いきった「ちぎれた愛」
欧米の音楽シーンがロックの時代に入ったことの影響を受けて始まった日本の新しい歌謡曲は、1960年代のエレキブームやグループサウンズを経て、1970年代に入ったところでソングライターたちの顔ぶれが一気に若手中心になり、そこから百花繚乱の全盛期を迎えていくことになった。...
View Article西城秀樹にコール&レスポンスを定着させた鈴木邦彦、少年から青年に成長させた阿久悠と三木たかし
子供のころから洋楽が好きで、早くも小学生から兄たちのバンドでドラムを叩いていた西城秀樹は、1972年3月25日に「恋する季節」で歌手デビューした。 そして2作目の「恋の約束」と3作目の「チャンスは一度」(ともに作詞:たかたかし、作曲:鈴木邦彦)で、ファンが順調に付いて人気が上昇してきた。...
View Article西城秀樹がカヴァーした日本のスタンダード曲①~矢沢永吉のソロ・アルバムから「恋の列車はリバプール発」
1977年にリリースされた西城秀樹のカヴァー・アルバム『ロックンロール・ミュージック』の最後を飾ったのが、矢沢永吉の「恋の列車はリバプール発」であった。 もともとは矢沢永吉が初のソロとして単身で乗り込んだロスアンゼルスで、1975年に制作したデビュー・アルバム『I LOVE YOU、OK』に収録された楽曲である。...
View Article西城秀樹がカヴァーした日本のスタンダード曲②~サザン・オールスターズ「いとしのエリー」
1995年の夏に「横浜みなとみらい21臨港パーク」にて開催されたサザン・オールスターズのコンサート『スーパーライブ in 横浜 ホタル・カリフォルニア』で、サプライズ・ゲストとして出演した西城秀樹は、代表曲の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を披露した。...
View Article22歳にしてシティ・ポップスの佳曲「カタログ」をカヴァーしていた西城秀樹~音楽を受容する卓越した力
梅垣達志の名前が広く知られるようになったのは、1977年6月にギタリストのChar に提供した「気絶するほど悩ましい」 がシングルでヒットしてからだった。...
View Articleオフコースの「眠れぬ夜」をカヴァーした西城秀樹~音楽を受容するその非凡なる能力
長いキャリアのアーティストやバンドには、音楽的な転機となったアルバムや曲が存在する。 そこから明らかに何かが変わったという作品ということでいえば、オフコースにとって決定的だったのは1975年12月20日発売のアルバム『ワインの匂い』であり、収録曲として発表されて同時発売のシングルになった「眠れぬ夜」だった。これがオフコースにとっては、小規模ながらも最初のシングルヒットになった。...
View Article西城秀樹に『∀ガンダム』の主題歌「ターンAターン」を作った小林亜星との出会いは『寺内貫太郎一家』
1999年から2000年にかけて放送されたフジテレビ系アニメ『∀(ターンエー)ガンダム』で、ストーリー前半のオープニング主題歌「ターンAターン」を歌ったのは西城秀樹だった。...
View Articleバハマ諸島の伝承歌だった「スループ・ジョン・B」はビーチボーイズによってスタンダードになった
フォークソングのコレクターでもあった詩人で作家のカール・サンドバーグと、フォークやブルースなどを問わずヨーロッパやカリブ海でも録音をしたアラン・ロマックスによって、1920年代に見出された「スループ・ジョン・B」は、バハマ諸島に広まっていた古くからの伝承歌だったという。 それが1940年代から1960年代前半に起こったフォークリバイバル(folk music...
View Article西城秀樹がカヴァーした作品から知る洋楽のスタンダード曲①~「トライ・ア・リトル・テンダネス」
1974年に発売された西城秀樹の2枚組ライブ・アルバムのオープニングを飾った楽曲は、ジョン・レノンの「ラブ(LOVE)」であった。 このアルバム『西城秀樹リサイタル ヒデキ・愛・絶叫!』には、1973年11月7日に東京郵便貯金ホールにおいて開催された2回目のコンサートの模様が収録されている。メドレーも含めて全部で23曲のうち、過半数の13曲が洋楽のカヴァーであった。...
View Article西城秀樹がカヴァーした作品から知る洋楽のスタンダード曲②~日本語によるロックの難しさを乗り越えたセンス
西洋文化の音楽や歌が日本に入ってきたのは明治維新の文明開化からで、軍歌と唱歌による音楽教育、賛美歌、童謡となって普及していった。 大正から昭和にかけて流行歌が生まれ、二村定一やエノケンのジャズソングと呼ばれるカヴァーによる「青空」など、洋楽のポピュラー・ソングも日本語で歌われて広まった。 だがクラシックやジャズは、どちらかといえば原語で歌われることが多かった。...
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