レコーディング中だったアヴィーチーが急に演奏した「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」のメロディ
スウェーデン出身のアヴィーチー(Avicii)ことティム・バークリングは、19歳で世界のトップDJとして認められて、EDMのムーブメントを牽引してきた。 ショービジネスの世界でスターの座を維持しながら、表現者として新しい作品を生み出していたが、たえまない緊張を余儀なくされたことで、精神的にはかなりきつい日々が続いていたという。...
View Article15、6歳の子供なのにギター教則本でクラプトン役になって先生をやっていたChar
仲井戸麗市(チャボ)の質問に答えて、Charが15、6歳の頃の話をしながら音楽人生のはじまりについて語ったBS11のテレビ番組『オン・ザ・ロック!』が、「ON THE ROCK 仲井戸麗市”ロック”対談集」として書籍化された。 そのなかで音楽業界の一部では知られていたギタリスト伝説、ソロ・デビューする前のCharと、あるギタリストにまつわるエピソードが活字になっている。...
View Article5枚セットのCDを発表したBAHOはそのまま「バホ」と読み、漢字では「馬」と「呆」と書いてやはり「バホ」と読む
BAHO(バホ)は1989年7月22日の深夜に、JR大阪駅コンコースでNHKの番組企画のために、初めてその姿を表したユニットである。...
View Article清潔で、さわやかで、それでいて野心的な若者と感じたCharのために阿久悠が書いた「気絶するほど悩ましい」
『没後10年・作詞家50年メモリアル 阿久悠リスペクトコンサート 〜君の唇に色あせぬ言葉を〜』が、2017年11月17日と18日に東京国際フォーラム ホールで開催された。 17日は出演順に八代亜紀、大橋純子、林部智史、MAX、北原ミレイ、石野真子、ささきいさお、Char、新妻聖子、山本リンダ、ゴスペラーズ、和田アキ子、木の実ナナ、五木ひろしで、それぞれ阿久悠が作詞した歌を披露した。...
View Articleボリス・ヴィアンの「脱走兵」を忠実な歌詞で歌い継いだ沢田研二
「脱走兵(Le déserteur)」はシャンソン歌手のムルージが歌って有名になった曲だが、作詞したボリス・ヴィアンの歌によっても、後々の世代に長く受け継がれていった。 この歌が作られたのはフランスが第1次インドシナ戦争(1946~1954)の終盤の時期で、第2次インドシナ戦争すなわちベトナム戦争を意識して書かれた。だがムルージのレコードが発売になったのは、11月にアルジェリア戦争...
View Article沢田研二の「君をのせて」から生まれた伝説のドラマ『哀しきチェイサー』で実現した内田裕也との共演
沢田研二の「君をのせて」という歌から、テレビドラマ『哀しきチェイサー』が生まれたのは1978年の晩秋のことだ。 エディット・ピアフの「愛の讃歌」の日本語訳などで知られる作詞家・岩谷時子が、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」や「ウナ・セラ・ディ東京」などでコンビを組んだ作曲家の宮川泰と作った「君をのせて」は、ザ・タイガースからPYGを経てソロになった沢田研二の初作品となった。...
View Articleビートルズの「ブラックバード」に込められたポール・マッカートニーの思いとは?
ビートルズの「ブラックバード」はその美しいメロディと、シンプルゆえに様々な意味に受け取れる歌詞のおかげで、長く歌い継がれてスタンダード・ソングになっている。 CSN&Yやサラ・マクラクラン、フー・ファイターズのデイヴ・グロール、ジャズピアニストのブラッド・メルドーなど、幅広い分野のアーティストのカバーがある。...
View Articleジョン・レノンにも重なる加藤和彦の生と死、ミュージシャンの悲劇から現代人に警鐘を鳴らす北山修
2009年10月16日に加藤和彦が亡くなったニュースを知ってしばらくして、朋友の北山修が書いた追悼の文章を読んだとき、無念の思いとともに静かな怒りのようなものがこみあげてきたのを覚えている。 なぜ自殺したのか、自殺しなければならなかったのか。 どうして「ヘルプ!」と叫ばなかったのだろう?...
View Articleビートルズに飛びついた女の子たちの気持ちを知る北山修が書いた「花」の歌
ザ・フォーク・クルセダーズ解散後、医学の道に進んだ北山修は、1987年に「ビートルズ」という本を書き下ろしている。 そこでは日本人にとってのビートルズとは何だったのかについて、自らの体験を織り交ぜつつも、さまざまな面から解説や考察がなされていた。そのまえがきでこう記しているのが、とくに印象深かった。...
View Article「帰って来たヨッパライ」と「コブのない駱駝」に託されていた北山修と加藤和彦からのメッセージ
加藤和彦が2009年10月に亡くなった後、きたやまおさむは「もう音楽をやめてしまおう」と思っていた時期があったという。 しかしザ・フォーク・クルセダーズの曲をレパートリーにしているバンドや、加藤和彦と二人で作った歌を聴いて育ったアーティストたちに出会うことで、 もう一度音楽をやろうという気持ちになることができたのだった。...
View Article「帰ってきたヨッパライ」という”変な歌”で登場したザ・フォーク・クルセダーズ
1960年代の後半から70年代にかけて、ラジオは若者たちにサブカルチャーを発見して紹介する役割を果たした。テレビは一家に一台くらいまで普及していたが、音楽に興味がある少年少女や若者たちはみんなトランジスタ・ラジオを聴いていた。 忌野清志郎が「トランジスタ・ラジオ」の歌詞に書いた通り、心のアンテナさえ感度が良ければ、小さなラジオは世界中からのメッセージをキャッチできたのだ。...
View Article四人囃子~伝説的な存在として日本の音楽史に刻まれることになったロックバンド
高校生だった森園勝敏と岡井大二が出会ったことで始まったバンド「ザ・サンニン」が、1971年から「四人囃子」として活動を始めた時、彼らは”ピンク・フロイドの「Echoes」を完璧に演奏できるバンド”として、その印象的な名前とともに一部の音楽ファンの間では知られていたという。...
View Articleロックンロールが開いてくれた扉から生まれてきた佐野元春の「SOMEDAY」
ブルース・スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」がアメリカで全米チャートの5位にランクされるヒットになったのは、1980年の年末から翌年にかけてのことだ。 それから半年後、日本では佐野元春の「SOMEDAY」が6月25日にシングルで発売になった。 しかし発売した当時、このレコードはそれほど反響があったわけではなく、シングルチャートでは100位にも入っていない。...
View Articleジャニス・ジョプリンがクリス・クリストファーソンから受け継いだ「自由」の歌
クリス・クリストファーソンは父が空軍の元将軍で、自分もオックスフォード大学を卒業後、西ドイツで空軍のパイロットとして従軍した。 そして退役後には就職したのだが、すぐに仕事を辞めることを決意する。念願だった音楽の道に進んで、ソングライターをめざすためである。 しかし、29歳で幼い子供を持つ父親のクリスに、そんな「自由」な生き方が許されるはずはない。...
View Article早く前を歩いていたのに遅咲きになり、そこから成功したシンディ・ローパー
シンディ・ローパーは1953年6月22日、ニューヨークのブルックリンに生まれた都会っ子だった。 だが5歳の時に両親が離婚したことで、母親や姉、弟たちと郊外のクィーンズに移り住んだ。 そこからは環境の変化になじめなくなり、いつもどこか場違いな感じでちょっと調子が外れて、まわりから浮いていたので変な視線を浴びてきた。 そうした子供時代から思春期を経て、家を出て自立したのは17歳の時である。...
View Article「混ぜこぜにしちゃえばいいじゃん?」という発想から生まれたシンディ・ローパーの名曲
シンディ・ローパーが1983年に最初のソロ・アルバムを作ったのは、フィラデルフィアの北西部、ポコノ山脈の麓にあるマネイアンクという町にあるスタジオだった。 フィラデルフィアのインディーズ・レーベルの社長だったレニー・ペッツは、メジャーのエピック・レコードに移ったことで、かねてから注目していたシンディとソロ契約を結ぶことにした。...
View Article多くの日本人が忘れていた「忘れないわ」を縁があって歌い継いだシンディ・ローパー
「けっしてあなたのことを忘れない」という意味を持つ日本語の歌に、シンディ・ローパーが最初に出会ったのは1982年のことだった。 ブルーエンジェルというバンドでデビューしたまではよかったが、どこからも認めてもらうことが出来ず、ソロ・デビューするまで雌伏の期間を過ごしていたシンディは、ニューヨークの日本人向けピアノバー「MIHO」で働いていた。...
View Article尾崎豊が生涯たった一度のテレビ出演で歌った「太陽の破片」
1983年にNHK-FMで夜10時から放送していた『サウンドストリート』は、月曜日:佐野元春、火曜日:坂本龍一、水曜日:甲斐よしひろ、木曜日:山下達郎、金曜日が渋谷陽一という、今から見れば豪華なDJが日替わりで音楽を紹介していた。 尾崎豊のデビュー曲「15の夜」がオンエアされたのは、シングル盤になることが決まって間もない頃だったと思う。...
View Article「メンバーズ・オンリー」っていう歌を聴いたら誰だって泣くはずだ。ボビー・ブルー・ブランドがまた歌っている。
黒人の聴衆に向けた全国巡業、いわゆるチタリン・サーキットの帝王として君臨したシンガーにボビー・ブランド、またの名をボビー・ブルー・ブランドがいる。 ゴスペル、R&B、ジャンプ、バラード、ソウルなど、すべてにブルースが根付いている独特の歌唱は骨太でいながらも、どこか滑らかである。...
View Article再起不能と心配された美空ひばりが復帰作「みだれ髪」のレコーディングで見せた女王の矜持
1987年3月のはじめ、作詞家の星野哲郎は常磐線の特急「ひたち3号」に乗って、福島県いわき市にある塩屋岬へ向かった。 長期入院を余儀なくされていたひばりが退院して、病からの復帰第一作となる新作をコロムビア・レコードから頼まれたからだ。 前の年に病に倒れて危機にあった美空ひばりの復帰作をつくるに当たって、作詞を星野に、作曲を船村徹に依頼したのは、コロムビアで長くディレクターを担当していた森啓である。...
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