美空ひばりが15歳で初めてレコーディングしたジャズ・ソング「上海」はドリス・デイのカヴァー
1945年に「センチメンタル・ジャーニー」の大ヒットを放って歌手として世に認められたドリス・デイは、次第に映画スターとしても活躍するようになり、それとともに円熟味を増していった。 スイング系のジャズ・ソングだった「上海」は、1952年に彼女がヒットさせた楽曲だった。 美空ひばりのSP盤の「上海」は1953年6月1日、タンゴの名曲「エル・チョクロ」の日本語カヴァーとカップリングで発売された。...
View Articleルイ・アームストロングが美空ひばりに残した手紙とレコード
美空ひばりの家には、大切に保存されていた古いジャズのLPレコードがあった。 そこにはジャズの王様と言われたアーティスト、ルイ・アームストロング(愛称・サッチモ)のサインが残されていた。 敬愛する日本の歌の女王、ひばりへ 神のめぐみと歌の心がいつも、あなたの上にありますように ルイ・アームストロング...
View Article美空ひばりが芸の道に生きると、あらためて決意した27歳の夏
美空ひばりはまだ小学生だった9歳のときから豆歌手として舞台に立って歌い、10歳で早くも映画『のど自慢狂時代』に初出演している。 コロムビアから「河童ブギウギ」を歌ってレコードデビューしたのは1949年、11歳の時で、続く「悲しき口笛」が大ヒットして少女スターの座についた。...
View Articleライブで唄ってみて歌の本質に気づいた美空ひばりが名曲に育てた「悲しい酒」
テレビドラマの主題歌だった美空ひばりの「柔」は、1964年11月20日に発売されると、翌年にかけて大ヒットし第7回日本レコード大賞ではグランプリに選ばれた。 そして翌66年には生涯を通しての代表曲となる「悲しい酒」が、シングル盤として6月10日発売になった。だがこの歌はそのまま、スムーズにヒットしたわけではない。...
View Articleなかにし礼が失意の底で遺言歌として書いた「さくらの唄」は美空ひばりの絶唱となったが‥‥
美空ひばりの27回忌を迎える前の日、東京・港区にある日本コロムビアのスタジオで、マスターテープから起こしたばかりの状態にあるハイレゾ音源で、名曲の数々を聴かせていただく機会に恵まれた。 これまで経験したことのない最高レベルの状態で聴いた歌声の数々のなかでも、とりわけ素晴らしかったのが1976年に録音された「さくらの唄」だった。...
View Article美空ひばり「愛燦燦」~小椋佳のデモテープを聴いて「シングルにしたほうがいい」と思ったことで誕生した人生賛歌
――ハワイのサトウキビ畑で働く農夫とその家族たち。夕方、収穫を終えた一家が馬車で家路をたどる。母に抱かれて眠る少女。突然の激しい夕立に小屋の軒先で雨を避ける一家が、やがて真っ赤な夕日に染まる― 「愛燦燦」は味の素株式会社の企業CMのためにつくられた作品で、素人俳優たちによる「家族愛」をテーマにした映像が先に完成していた。...
View Articleブラジルの貧民街とアメリカの刑務所で撮影されたマイケル・ジャクソンのショート・フィルム
1995年のアルバム『ヒストリー』に収録された「They Don’t Care About Us(彼らは僕らのことなんて考えちゃいない)」は、妥協を許さない表現者としてのマイケル・ジャクソンの姿勢が打ち出されている楽曲だ。 世界の人々が現実に直面している差別や暴力といった問題を、マイケルは他人事ではなく自分のこととして考えて、不条理や不公平を許さないという気持ちを込めて音楽にした。...
View Articleマイケル・ジャクソンの命日~残された率直な言葉に向き合う
没後10年、亡くなった後も多くのファンを魅了するマイケル・ジャクソン。 彼は常に自分自身の経験を踏まえながら、人権の平等や人種差別の撤廃を作品を通して訴え続けた。 キング・オブ・ポップと呼ばれた不世出のスーパースターが残した言葉には、世界中の為政者たちにも届いてほしいと思うことがある。...
View Article沢田研二によって発売から50年でスタンダード・ソングになってきた「風は知らない」
タイガース時代の隠れた名曲といわれていた「風は知らない」が、2018年から19年にかけて行われているツアー〈沢田研二70YEARS LIVE『OLD GUYS ROCK』〉でも歌い継がれている。...
View Articleスーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録
日本のエンターテイメントビジネスにおいて、レジェンドと呼べる存在として筆頭にあげられるのは、1971年のソロ・デビューから50周年を迎えた沢田研二だろう。 彼はソロになる前、GSのザ・タイガースの時代から「ジュリー」の愛称で呼ばれて、若い女性の間では圧倒的に人気があった。...
View Article沢田研二の「コバルトの季節の中で」で抜擢され、「勝手にしやがれ」を仕上げたアレンジャーの船山基紀
1951年に東亰に生まれた船山基紀は、早稲田大学高等学院から早稲田大学政治経済学部に進んだが、大学3年の時にアルバイトで始めたヤマハの「ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」の仕事で、編曲の基礎を学んだことから音楽の道に進んだ。...
View Article勝手に売れたわけではなかったサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」①
NHK-FMのラジオ番組『甲斐よしひろの若いこだま』では1978年の6月9日に「ロックの日」と称して、「夏よ来い!ロックンロール大特集」がオンエアされた。 甲斐バンドの「狂った夜」を皮切りに、サディスティック・ミカ・バンドの「ダンス・ハ・スンダ」、内田裕也のアルバム『ア・ドッグ・ランズ』、四人囃子の「空と雲」、パンタ(PANT)の「屋根の上の猫」などが選曲されていた。...
View Article勝手に売れたわけではなかったサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」②
激動の60年代後半から70年代にかけては、まだベトナム反戦運動や反体制の学園紛争の名残が残っていて、ロックバンドやフォークシンガーたちは、個と個のつながりが感じられるラジオパーソナリティは引き受けても、商業的な巨大メディアのテレビに出演することは避けていた。...
View Articleビートルズ来日公演~観客席の少年少女たちには確かに届いていた音楽
ファン待望のビートルズ来日公演の初日。 コンサートは1966年6月30日午後7時35分に始まり、8時5分に終了した。ビートルズはアンコールもなく、楽屋口に用意された車で武道館を後にした。 終演後、観客席に残った女の子たちはみんな泣いていた。 少年たちはみんな茫然としていた。 全11曲、わずか30分のコンサートの演奏曲目は以下の通りだった。 ①Rock And Roll Music ②She’s...
View Articleジョン・レノンがシャウトする「ミスター・ムーンライト」がテレビから流れてきた瞬間の衝撃
ビートルズの武道館公演の独占中継権を得たのは、主催した読売新聞の系列だった日本テレビである。コンサートの模様は7月1日の夜9時から1時間にわたって、特別番組「ザ・ビートルズ日本公演」として放送されたが、59.8%という高い視聴率を記録した。 しかしその夜の放送で視聴者に対して、最初の大きな衝撃を与えたのはコンサートではなく、オープニング映像のなかで流れたジョン・レノンのシャウトする歌声だった。...
View Article武道館でビートルズ公演を観たザ・タイガースが同じステージに立った日
東京オリンピック開催に合わせて1964年9月に完成した日本武道館が、初めてコンサートに使われたのは1966年6月30日のことで、それは3日間で5回行われたビートルズの日本公演だった。 観客席からは前座での出演を辞退したスパイダースと、大阪を拠点にプロを目指していたファニーズ(その年の11月にザ・タイガースに改名)が、本物の動くビートルズを真剣な眼差しで見つめていた。...
View Article武道館公演を観て「ビートルズは自分がやらなければいけない」と決意し、解散後に実行した石坂敬一
日本武道館で1966年6月30日から7月2日まで合計5回行われたビートルズのコンサートは、会場に観に来た人たちの人生にもまた大きな影響を及ぼした。 7月1日に大学の授業を休んで観に行った石坂敬一は、ライブが終わった後で将来はビートルズの仕事をするということを決めたという。 遺作となった語り下ろしの自伝「わがロック革命...
View ArticleテレビCMで「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」と出会った竹内まりやの衝撃
竹内まりやがビートルズと出逢って衝撃を受けたのは、前触れもなく流れてきたテレビのCMからだった。一緒にテレビを見ていた兄に「今のは何?」とたずねると、「ビートルズ」と教えてくれたそうだ。 その時、竹内まりやは9歳。「あまりの衝撃で、ミコちゃんもパラキンもどこかに行ってしまった感じ」だったという。...
View Articleいつの日にか、いつの日にか、自由に歌えるさ~アイ・シャル・ビー・リリースト
2014年4月19日に東京のシネスイッチ銀座で公開された映画『チョコレートドーナツ(原題・ANY DAY NOW)』は、連日満席のヒットとなって評判が口コミで伝わり、拡大公開が決まって最終的には日本全国100館を超える劇場で上映された。...
View Articleビッグピンクの地下室から生まれたボブ・ディランとザ・バンドの「アイ・シャル・ビー・リリースト」
ザ・ホークス(後のザ・バンド)のロビー・ロバートソンが、知人の紹介でボブ・ディランと会ったのは1965年のことだった。 ツアー・バンドのギタリストを探していたディランは、ひとまず2本のライブでロバートソンに参加してもらった。そしてロバートソンを気に入ったディランは、すぐに追加のツアーにも参加するようにと依頼してきた。...
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