坂本九の「上を向いて歩こう」に慰められて大量の涙を流した無名時代の阿久悠
中村八大と永六輔コンビの書き下ろしによる「上を向いて歩こう」が、坂本九によって最初に唄われたのは1961年7月21日、「第3回中村八大リサイタル」のなかでのことだった。それがレコードになって10月15日に発売されると、たちまちラジオやテレビを通じて大ヒットした。 ちょうどその時にアメリカではレイ・チャールズの「旅立てジャック」が、10月9日と16日に全米チャート1位になったところだ。...
View Article「阿久悠は新時代の旗手になる!」と、ひとりの新聞記者の心を昂らせた歌
目立たない新人歌手だった北原ミレイのレコードを試聴していたスポーツニッポンの音楽記者、小西良太郎は歌い出しから驚き、最後まで聴き終わると小躍りするほどに心が昂ったという。 この1曲で僕は作詞家阿久悠と歌手北原ミレイを同時に発見、ものの見事に舞い上がった。この作品が流行歌の流れを変える! 変革の70年代、阿久は新時代の旗手になる! それを象徴するのがミレイだ!...
View Article待ち望んでいた宝物のようなデータブック「作詞家・阿久悠の軌跡 没後10年・生誕80年完全保存版」
「作詞家・阿久悠の軌跡 没後10年、生誕80年 完全保存版」というデータブックには、ヒットしたシングル曲のみならず、まったく売れなかったシングル曲のジャケットまで、あわせると約1300点が掲載されている。 タイトルにもある通り、作詞家としての阿久悠が残した作品情報を可能な限り、すべて網羅しようという思いがカタチになった労作だ。...
View Article”阿久悠は新時代の旗手になる!”と小西良太郎に言わせた歌「ざんげの値打ちもない」
1967年の2月にザ・タイガースがデビューしたときから、日本では空前のグループ・サウンズ(GS)のブームが爆発した。 前年の夏にビートルズの来日公演が行われる前後から、先行していたスパイダースの活動やブルー・コメッツのヒット曲「青い瞳」で、もう十分に下地はできていた。...
View Article2006年の夏に「誰が歌謡曲を殺したか」という、遺言のようなエッセイを発表した阿久悠
2006年7月1日、東京新聞にひとつのエッセイが掲載された。 タイトルは「誰が歌謡曲を殺したか」という、いささか刺激的なものだった。これを書いたのは作詞家の阿久悠で、当時は癌との闘病で入院中であった。 もう余命がいくばくもないことを感じていたのだろうか、エッセイからは遺言のようなニュアンスが伝わってきた。書き出しの文章は歌謡曲について、まず定義を確認するところから始まっている。...
View Article「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」で結実した二人の才能~ミック・ジャガーとキース・リチャーズ
熱心なR&Bファンから出発したキース・リチャーズは、まずギターをコピーして自分のものにすることから音楽の道に入った。 だから表現者としての自覚が芽生え始めたのはデビューした後のことで、ソングライティングに取り組んでからだという。 キースは1964年の7月頃と思われるインタビューでこう語っている。...
View Article「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」~1974年の郡山ワンステップフェスティバル
1974年の夏、福島県郡山市で11日間に渡って開催されたワンステップフェスティバルは、「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」、そんなテーマを掲げた地元の若者たちが始めた手作りのイベントだ。 その一環として行われたロック・コンサートは、8月4・5日、そして8・9・10日の5日間だった。 当時の日本では最大規模となるこの野外ロックフェスに、日本から30組以上のバンドやミュージシャンが出演した。...
View Article追悼・水橋春夫~音楽面からジャックスを自然に輝かせていたポップス少年の感性
1960年代の後半に忽然とアルバム・デビューしたジャックスは、はっぴいえんどと並んで日本のロックを語るときに欠かせない存在である。 しかし、1968年のデビュー・アルバム『ジャックスの世界』を発表するとほぼ同時に、ギターの水橋春夫が脱退の意思表示を明らかにしたため、思うように活動ができずに「早すぎた幻のバンド」として伝説になっていくしかなかった。...
View Article1970年8月5日にアングラ・レコード・クラブから発売された記念すべき1枚のアルバム『はっぴいえんど』
1970年6月1日にエレックレコードから発売された吉田拓郎のシングル盤「イメージの詩」と、B面の「マークⅡ」が口コミから評判になって、深夜放送など一部のラジオでオンエアされるようになったのは盛夏に入ってからだった。...
View Article濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ
「ロックは英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか」という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、本物のロックを目指したロック・コンサートが様々な会場で行われていた。 そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。...
View Articleレッキング・クルーの一員からスタートして偉大なるカントリー・シンガーとなったグレン・キャンベル
カントリー・ミュージックの大物アーティスト、グレン・キャンベルが81才で亡くなったのは2017年8月8日のことだった。 訃報を聞いたキャロル・キングはすぐに、追悼メッセージをツイッターで寄せた。 「RIP グレン・キャンベル。偉大なるシンガーで曲も書けるミュージシャン、そして素晴らしい楽曲を選んでカヴァーした人物」 RIP Glen Campbell – a great singer and...
View Article黒柳徹子が独特な持ち味を発揮し始めた伝説の番組『夢であいましょう』
耳で歌を聴くだけではなく、目でも音楽を楽しむ。 そんな生活が身近になったのは、1960年代前半にテレビが一般家庭にまで普及したおかげだった。 衣食住の心配が少なくなり、眠る時も安心して夢を見られるー。 戦争のない平和な時代がやって来たことで、若者たちにとって歌や音楽が急に身近なものになった。 1961年4月8日の夜10時、NHK総合テレビで伝説の番組が始まった。...
View Article私たちは手をとりあって、よくわからない〈テレビ〉という暗闇の中を進んでいった黒柳徹子~
黒柳徹子には小学校の時からなりたいものがいろいろあった。バレリーナ、幼稚園の保母さん、従軍看護婦、スパイ、競馬の騎手。だが、香蘭女学校を卒業後にはオペラ歌手になると、きちんと目標をさだめて東洋音楽大学声楽科へ入学した。 東京音楽学校でバイオリンとクラシック音楽を学んだ父の黒柳守綱は、昭和12年から5年間に渡って新交響楽団のコンサートマスターを務めたが、戦争のためにシベリア抑留を余儀なくされた。...
View Article日吉ミミが”ヨノナカバカナノヨ”と歌った回文による歌謡曲~「世迷い言」
日吉ミミの「世迷い言」は、昔から伝わってきた「タケヤブヤケタ(竹藪焼けた)」「タイヤキヤイタ(たい焼き焼いた)」などの回文を使った歌謡曲で、テレビドラマの挿入歌として作られた。 1978年に作られた連続ドラマの『ムー一族』(TBS系)は、全編を通してナンセンスな笑いとシュールなギャグが出て来る作品だった。...
View Article唄を忘れたかなりやだった27歳の西條八十は、忘れた唄を思ひだして詩人となった
地主の息子で石鹸製造業や販売でも財を成した父親が亡くなったとき、西條家の全財産を相続したのは早稲田中学に通う学生だった17歳の西條八十だった。三男だったにもかかわらず家督相続人に任命されたのは、長男がまったく信用のおけない道楽息子であったからだ。...
View Articleかつての栄光の歌手という道が始まった~坂本九の27歳
エルヴィス・プレスリーに憧れてロックンロールに目覚めた坂本九が、バンドボーイを振り出しに米軍キャンプやジャズ喫茶でのライブで経験を積み、「日劇ウェスタンカーニバル」の舞台に立ったのは1958年の夏のことだ。 そのとき坂本は18歳で、歌ったのはリトル・リチャードのカヴァー曲だった「センド・ミー・サム・ラヴィン」。...
View Article歴代最高視聴率81.4%を記録した紅白歌合戦で歌われた「見上げてごらん夜の星を」と、坂本九が非難された「君が代」事件
ツイスト・ブームを頂点に、カヴァー・ポップスが人気のピークを迎えた1961年から63年。東京オリンピックを間近にした日本では、意外にも社会の趨勢とは逆に、復古調で時代がかった流行歌が人気を集めていた。 流しの演歌師として東京の浅草で苦労を重ねたこまどり姉妹が、61年の夏に三味線を手にして着物姿でデビューして、「ソーラン渡り鳥」が最初のヒットとなってスターの座についた。...
View Article「今まで聴いた中で一番くだらない歌詞だ」と言われた歌を全米1位の大ヒット曲にしたレス・ポールのマジック
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン(How High the Moon)」は、1940年にミュージカル『Two For The Show』のために書かれた曲だったが、レス・ポールは自分の作る最新のギター・サウンドと、メリーの素直で温かみのあるヴォーカルの組み合わせで、世界をアッと言わせる事ができると確信していた。...
View Articleレス・ポールによる飾り気のないアレンジで劇的な変貌を遂げた「ヴァイア・コン・ディオス」
常識破りのギタリストだったレス・ポールは、新しいサウンドの探求者で発明家でもあった。 彼の名前が付けられたエレキギター、ギブソンのレスポール・モデルは今もなお永遠の輝きを放っている。 彼が始めたテープレコーダーによる多重録音も、今では世界中のレコーディングで普通に行われている。多重録音されたギターの音に電子的なエコーをかけて、そのサウンドを何倍も、何十倍も魅力的なものにしたのもレス・ポールだ。...
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