27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈前編〉~「ポリープを切ることで私の歌の命まで切ることになった」
1969年9月に「新宿の女」でデビューした藤圭子は、演歌で日本語のブルースとロックを体現していたシンガーだった。 ファースト・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』は1970年3月に発売されると、まもなくオリコンのアルバムチャートで1位を記録した。...
View Article27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈後編〉~ 「あたし、嘘つくのいやだったんだ」
1979年の10月、作家の沢木耕太郎は、翌年から朝日新聞に連載するノンフィクションを執筆するため、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在していた。 そんなある日、執筆に疲れて部屋のテレビをつけると、「藤圭子引退!」のニュースが大きく取り上げられた。 それに強い衝撃を受けた沢木は即座に山を降りて、藤圭子に連絡を取ってインタビューをさせてもらう約束を取りつける。...
View Article追悼・藤圭子~沢木耕太郎のノンフィクション「流星ひとつ」に活写された正直で飾らない女性の生き方
藤圭子が亡くなったのは2013年8月22日の昼前で、その頃に住んでいた新宿のマンションで高層階から身を投げたという、そんなニュース速報が流れて、衝撃は日本中の知るところとなった。 スターになった20歳の頃に、ジャズ喫茶によく一人で顔を出していた彼女を知っていた元祖ロカビリー歌手で、プロデューサーでもあるミッキー・カーチスはその日の夜に、こんなつぶやきを載せていた。...
View Article青山ミチの「叱らないで」から生れた藤圭子のデビュー曲「新宿の女」
青山ミチという歌手がいた。 アメリカの影を背負った生まれで、才能はあったが不器用で、行動が危なっかしい少女歌手だった。わずか13歳で和製ポップスでデビューしたがヒットに恵まれず、「ミッチー音頭」などで注目されたが、いつしか暗い方向へと流されていった。 そんななかで唯一、賛美歌のような「叱らないで」が1968年に少しだけヒットした。 ●...
View Article藤圭子 ~日本語でブルースを体現するロック世代のシンガーによる「生命ぎりぎり」
藤圭子がデビューした1969年、日本の音楽シーンには明らかな傾向があった。 カルメン・マキの「時には母のない子のように」を筆頭に、ちあきなおみの「雨の慕情」、加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」など、若い女性シンガーが歌う暗い曲調の歌がヒットしていたのだ。それらの歌の主人公に共通するのは、”行き場のない孤独と切なさ”だった。...
View Article静かな怒りで反戦を訴える「星の流れに」と藤圭子のブルージーで儚い歌声
終戦から2年後の1947年、満州で両親を失って命からがら引き揚げてきた若い女性の悲痛な体験が、東京日日新聞に掲載された。 一人として身よりも知り合いもいない東京で、飢餓から逃れて生きていくためには、従軍看護婦の仕事から街娼に身を落とさざるを得なかったという、身の上を綴った内容だった。 その投書を読んだ作詞家の清水みのるは激しい憤りを感じながら、夜を徹して一編の歌詞を書きあげている。...
View Article藤圭子と宇多田ヒカルの母子をつないだカーペンターズの「Close to You(遙かなる影)」
バート・バカラックの代表作となった「Close to You(遙かなる影)」は、俳優のリチャード・チェンバレンが1963年にリリースしたシングルのB面曲だった。 そんな埋もれていた曲をカヴァーして大ヒットに導いたのが、リチャードとカレンの兄妹デュオからなるカーペンターズである。...
View Article時を超えて、時を駆け上がって、希望を伝える映画『君の名は。』と主題歌「前前前世」
アニメーション映画『秒速5センチメートル』(監督・制作 新海誠)の主題歌として起用されたのを機に、山崎まさよしの「One more time, One more chance」が世界のアニメ・ファンに発見されてから10年が経とうとしている。 そして新海誠監督の『君の名は。』が社会現象となるほどの大ヒットを記録したが、その音楽もまた日本映画に新しいページを開いたのではないか。...
View Articleビートルズを世に出したブライアン・エプスタインとジョージ・マーティン、二人が初めて会った日
いくら天賦の才能に恵まれたアーティストであっても、それが人に認められなければ歴史に残る歌は生まれないし、後世に伝わっていくこともない。そこには人と人との出会いがあり、いくつもの物語が存在している。 ビートルズが空前絶後の成功を収めて素晴らしい楽曲の数々を生み出したのは、ブライアン・エプスタインというマネージャーに出会ってからのことだ。...
View Article「カムバック・スペシャル」で完全復活を果たすまで①~エルヴィスとの対面で放たれたジョン・レノンの言葉
ハリウッドにあるエルヴィス・プレスリーの自宅で、ビートルズとの世紀の対面が始まったのは1965年8月27日の夜だった。 憧れのヒーローに会うことで神経質になっていたビートルズの4人が、実際にはどう振る舞ったのかについて、長年にわたって広報を担当していたトニー・バーロウが、回想録のなかでこのように記していた。...
View Article偉大なるスーパースターを発見して育てた、まったく異なるタイプの二人のスーパーマネージャー
1965年8月27日のエルヴィスとビートルズとの面会は、パーカー大佐のほうから積極的にしかけたといわれている。 ビートルズがテレビ「エド・サリヴァン・ショー」への初出演を果たした64年2月9日、パーカー大佐はエルヴィス・プレスリーの名前で電報を届けていた。本番が始まる30分前にそれを見つけて喜び、大きな声で読み上げたのがボール・マッカートニーだった。...
View Article歌謡曲のさきがけとなった「カチューシャの唄」と、井上陽水の「夢の中へ」をつなぐもの
日本の歌謡曲の先駆けとも、第1号ともいわれる「カチューシャの唄」が誕生したのは1914(大正3)年のことだ。大正ロマンという文化のムーブメントを背景にこの歌を作ったのは、西洋の演劇を学んで日本に「新劇」を確立した島村抱月である。 読売新聞の社会部の記者として働いた後、母校に戻って文学部講師となっていた抱月は、海外留学生として1902年(明治35年)から3年間、イギリスとドイツで学んでいる。...
View Article「カンドレ・マンドレ」から「夢の中へ」と進化した井上陽水のソングライティング
1969年に「アンドレ・カンドレ」という名前で登場した井上陽水だが、デビュー曲は「カンドレ・マンドレ」というタイトルだった。発表されたその当時も今も変な芸名だったし、曲のタイトルもかなり変な感じがした。 最近になって本人は「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」と話しているが、そのどこか普通ではないネーミングには、井上陽水という表現者が持っている美意識と恥じらいが潜んでいる。...
View Article井上陽水の「傘がない」にあったのは、「カ」「サ」「ガ」「タ」「ダ」から生まれる切迫感と叙情だった
井上陽水の初期の代表曲「傘がない」は、1972年7月にシングル・カットされたが、当時はヒット曲にならなかった。しかし、聴いた人たちには軽い衝撃を与えた。いや、それを重い一撃だと受けとめた人もかなりいただろう。 1973年12月に、陽水のアルバム『氷の世界』が史上初のミリオンセラーになったことへの伏線は、「傘がない」の衝撃がボディブローのようにじわじわと効いたところにあった。...
View Article井上陽水の「断絶」~歌詞にこだわったプロデューサーの多賀英典が見出したのは人間の優しさだった
営業マンの出身だったポリドール・レコードの多賀英典は、まだ制作を手掛けてから間もない時期だったが、テーマの選び方や歌詞について、ディレクターとしての立場から井上陽水に意見や注文をぶつけてきた。 歌詞の完成度を高めるようにと厳しく要求されたことは、スタッフにも本人とっても、意外なことだったらしい。...
View Articleディランの「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」を聴いて突然、こんなふうに書けばいいのだと分かったんだよ
1969年にアンドレ・カンドレという芸名で登場した井上陽水のデビュー曲「カンドレ・マンドレ」のアレンジをしたのは、フォーク・グループの六文銭を率いていた小室等だった。 小室はレコーディングが終わってから、まだ地元の福岡から出てきたばかりだった陽水を、どういうわけか自宅に招いた。緊張して上がってしまった陽水は、用意された鍋をほとんど食べれなかったらしい。...
View Article井上陽水と忌野清志郎によるソングライティングで誕生したニューミュージックの傑作「帰れない二人」
井上陽水の「帰れない二人」が発売されたのは1973年9月21日、シングル盤「心もよう」のB面としてであった。 そしてアナログ・レコードの時代の日本において、最初に100万枚を突破した歴史的なアルバム『氷の世界』にも収録されたことによって、多くの音楽ファンに親しまれることにもなった。...
View Article日本のオリジナルR&B「グットナイト・ベイビー」と、ド演歌の二重唱「昭和枯れすすき」を作曲してヒットさせたむつひろしとは?
キングトーンズの「グットナイト・ベイビー」がアメリカで発売になり、全米R&B部門で48位にランクされたのは1969年のことだ。 基本的に黒人音楽しかランクされない「Rhythm&Blues」のカテゴリーで、日本のアーティストがチャート・インしたのは、1963年に全米HOT100でも1位に輝いた「SUKIYAKI(スキヤキ)」の坂本九に続く出来事だった。...
View Articleむつひろしと浅川マキのソングライティングによる「ちっちゃな時から」
2015年にオネストジョンというイギリスのレーベルから、アルバム『MAKI ASAKAWA』が発売になった。この浅川マキのUK盤を企画して発売にこぎつけたのは、ロンドン大学の教授でもあるアラン・カミングス。 彼が書いた詳細なライナーノーツにはこんな紹介が出てくる。...
View Article多彩なカヴァーによって世界のスタンダード曲になったヴァン・モリソンの「クレイジー・ラヴ」
ヴァン・モリソンの「クレイジー・ラヴ」は、1970年2月28日にリリースされたアルバム『ムーンダンス』の一曲として世に出た。 同じ年、この曲をデビュー・アルバム『ジェシ・デイヴィスの世界(JESSE ED DAVIS)』のなかでカヴァーしたのが、オクラホマ州の出身のギタリストだったジェシ・デイヴィスである。...
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