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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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天国へ逝った越路吹雪に「眠られぬ夜の長恨歌」を書かずにはいられなかった岩谷時子の孤独

越路吹雪は、宝塚歌劇団の男役で戦中から戦後にかけて活躍した後に、女優としても歌手としても映画やテレビ、舞台の分野で日本のエンターテイメント界を牽引し続けた。そして現役の大スターのまま燃え尽きるように、1980年11月7日の午後に56歳で亡くなった。...

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「君をのせて」という歌の「君」とは作者の岩谷時子にとって越路吹雪だったのかもしれない…

「君をのせて」という歌は、1971年に行われたプロの作曲家コンクール「第3回 合歓ポピュラーフェスティバル’71」への参加曲として作られたものだ。 作曲したのは、ザ・ピーナッツの代表曲「恋のバカンス」や「ウナ・セラ・ディ東京」を書いた宮川泰で、それらのヒット曲は作詞家の岩谷時子とのコンビだった。...

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岩谷時子にとって懐かしのレコード~宝塚時代の越路吹雪が可愛らしい声で歌った「ブギウギ巴里」

越路吹雪と岩谷時子は40年近くもの間、お互いに深い友情で結ばれていた。 昔から女同士の友情は成立しないとか、長くは続かないとよく言われていたものだが、二人は宝塚歌劇団の屋根の下で出会って以来、喜びも悲しみも共にして生きてきた。 1959年には越路の結婚という大きな転機があったが、それを機にお互いが相手を思いやるようになり、ますます友情を深めていったという。...

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小林幸子~赤レンガに響き渡った岩谷時子への想い~

女性作詞家のパイオニアだった岩谷時子が、97歳の生涯を終えて天国へ旅立ったのは、2013年の10月25日だった。 歌手になって50年という節目の年にふさわしい新しい企画に挑んでいた小林幸子は、岩谷作品で構成されるコンサートをその5日後に予定していた。...

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デュアン・オールマンはなぜウィルソン・ピケットを説得して「ヘイ・ジュード」をカヴァーさせたのか?

ビートルズの18枚目のシングル「ヘイ・ジュード」は1968年8月末に発売されると、9月28日には全米チャート1位になって9週間連続で首位の座をキープするという大ヒットを記録した。 この曲がヒットし始めた頃、アメリカ深南部のアラバマ州にある人口8,000人の田舎町、マッスルショールズにあるフェイム・スタジオで、サザン・ソウルの大物となっていたウィルソン・ピケットのレコーディングが行われていた。(注)...

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初来日の武道館でエリック・クラプトンが弾いていた幻のギブソン・エクスプローラー

いわゆる“3大ギタリスト”最後の大物として初来日したエリック・クラプトンのコンサートは、1974年10月31日の夜に日本武道館で初日の幕を開けた。 「ヤードバーズ」や「クリーム」での活躍後、約3年間もレコーディング、コンサート活動を中止していたために、当時のクラプトンは伝説の存在となっていた。...

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「群青色の朝」と「鈍色の雨」という言葉で始まった日本語のロック~はちみつぱい「塀の上で」

2000年夏、「5人で歌う、5人の“ビューティフル・ソングス”」というキャッチコピーがついたコンサート、「Beautiful Songs(ビューティフル・ソングス)」が開催された。 それぞれの活動の中で信頼関係を育んできた5人、大貫妙子、奥田民生、鈴木慶一、宮沢和史、矢野顕子による全国7都市を回ったツアーは大好評で、2003年の3月から4月にかけて再びスペシャル・ライブが行われた。...

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ビートルズのジョン・レノンが「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」で観客を笑わせた痛快な発言

1963年1月に発売されたセカンド・シングルの「プリーズ・プリーズ・ミー」が大ヒットし、勢いに乗ったビートルズは、少年少女たちの熱狂的な支持を集めるようになった。 ビートルズはラジオやテレビにも出演したが、特に普及してきたテレビを通じて、一般の人たちにまで急速に知られるようになっていく。 最も人気のあるTV番組『Sunday Night at London...

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途方にくれていた桑原あいをモントルー・ジャズフェスで励ましたクインシー・ジョーンズの言葉

2015年7月、ジャズ・ピアニストの桑原あいは、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルで開かれたソロピアノ・コンペティションに日本代表として出演し、生きている伝説とも呼ばれる「偉大なるQ」に出逢ったことで、世界へと続く道を歩むことになった。...

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ジョニ・ミッチェルの哲学的な歌詞、「Both Sides Now / 青春の光と影」

1967年3月の初頭。ジョニ・ミッチェルは、後にノーベル賞を受賞する作家、ソール・ベローの「Henderson the Rain King(雨の王ヘンダソン)」を読んでいた。その文中に書かれていた一行から、彼女は強いインスピレーションを受け取ったという。 人が雲を見上げ、また見下ろせるようになった時代に、死ぬことなど恐れるに足らずだ。...

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高倉健の代表曲「網走番外地」は、なぜ放送禁止歌として扱われていたのか

報道系、ドキュメンタリー系の番組を中心に数々の映像作品を手がけるほか、作家としての著書も数多くある森達也が書き記した「放送禁止歌」(知恵の森文庫)は、放送禁止歌のドキュメンタリー番組を制作する過程で出くわした問題や、その背景にある様々な事実にもとずいて書かれたノンフィクションだ。...

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シャイな好青年だった高倉健はいつから寡黙で厳しい表情のストイックな男になったのか

スクリーンで演じた役のイメージがそうだったように、孤独の影をまとう男という生き方を貫いた高倉健は、私生活をまったく垣間見せないスターとして有名だった。 しかし訃報を聞いた美術家の横尾忠則氏は、世間的なイメージ以上に「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人でした」と語っていた。...

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【追悼】 アラン・トゥーサンをイギリスでいち早く取り上げたローリング・ストーンズ

オーティス・レディングが、自ら作曲した「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」を発表したのは1962年10月のことだ。 そのときオーティスは21歳、かろうじてR&Bチャート・トップ100内に入ったものの、とても成功とは呼べない結果に終わった。...

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追悼・りりィ~哀切きわまりない「心が痛い」と、ヒット曲の「私は泣いています」

1952年2月17日に福岡県に生まれたりりィは、ロシア系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフである。朝鮮戦争に従軍した父は、彼女が生まれる前に戦死したと聞かされて、りりィは母と祖父の3人家族で育った。 しかし、その外見から「あいの子、あいの子」といじめられてきたという。幼い頃から美貌であるがゆえに、周囲から妬まれてきたのだった。...

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りりィが17歳の時に初めて書いた歌~「愛」に込められた孤独な少女の叫び

りりィのプロデューサーだった寺本幸司が、日本で最初のインデペンデント・レーベル「アビオン・レコード」の設立を企画したのは1966年のことだった。 その時期にゴスペルの影響を受けた歌手の浅川マキと出会った寺本は、和製ソウルを開拓しようと考えて、デビュー曲「東京挽歌」を制作してビクターレコードから発売した。...

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日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバー「ダイナマイトが百五十屯」の破壊力

日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバーと言われているのが、1958年11月に発売された「ダイナマイトが百五十屯」である。 歌ったのは、当時23歳の映画俳優だった小林旭。作詞は脚本家でもある関沢新一、作曲したのが後に演歌の大御所となる船村徹だった。...

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小林旭の「ダイナマイトが百五十屯」~詞・曲・歌唱が奇跡的に融合され爆発している”土着ロック”の最高傑作

1958年に「ダイナマイトが百五十屯」が発表されたとき、それが日本語のロック第1号楽曲として21世紀にまで受け継がれることなど、当事者の誰もが想像だにしなかっただろう。 この楽曲と歌が持つ破壊力について、小林旭の研究家でもあった故・大瀧詠一は料理にたとえて、こんな解説をしている。...

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追悼・レオン・ラッセル~日本でもヒットした「タイトロープ」と桑田佳祐に受け継がれたロック

偉大なるミュージシャンが亡くなっても、その精神や楽曲が次の世代に受け継がれていくことで、音楽は生き続けることができる。それを引き継いでいくことが、本当の意味で追悼ということにもなるのだろう。 1942年に南部のオクラホマ州に生まれたレオン・ラッセルは、10代の半ばからロスアンゼルスに出て、セッション・ギタリストとしてその長いキャリアをスタートさせた。...

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ローリング・ストーンズの曲からメロディを借りて絶望をうたったニール・ヤング

ニール・ヤングは1972年の11月12日、27歳の誕生日を迎えた。 その年の2月に発表したアルバム『ハーヴェスト(Harvest)』は、ナッシュビルのカントリー系のミュージシャンたちをバックにした作品だが、アルバムの年間チャートでは1位になって大ヒットを記録した。 またシングル・カットされた「孤独の旅路(Heart Of Gold...

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追悼・片山広明~「まったく、酔うとなにをするかわからないヤツだ」と言いながらも、忌野清志郎が信頼していたバンドマン

「本日テナーの片山広明が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。」という情報が、地底レコードのホームページに掲載されたのは、2018年11月12日のことだ。 本日の朝だったそうです。最後は地底レコードでCDをリリースしていました、RCサクセション・渋さ知らズでも活躍した、SAXの片山広明が亡くなったとの情報を夕方に知りブッタマゲました。...

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