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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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「東京五輪音頭」のヒットをめぐる勝者と敗者 ③ レコード会社によるプロモーションの温度差

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前回の記事から、三波春夫の「東京五輪音頭」がなぜ大ヒットしたのか、その要因はおおむね理解できた。
だが結果的に敗者となった三橋美智也の極端な不振に関しては、それほど単純な話ではなかったのかもしれないと思い始めた。

きっかけはディスコグラフィーを見ていて気付いた見慣れないレコード番号への疑問と、翌年の春になってからジャケットをカラーにして、あたためてA面で再発売されたことの不自然さだった。
そこで国会図書館で当時の目録などを調査してみたが、当時の動きについては「なにかがおかしい」という違和感が増すばかりだった。

なにしろ若手オペラ歌手の友竹正則が唄う「海をこえて友よきたれ」がA面の扱いで、三橋美智也の「東京五輪音頭」はB面だったのである。

キングレコードを背負って立つ看板スター歌手なのになんという地味な扱いで、しかも古色蒼然としたジャケットなのなのだろうと思わずにはいられなかった。
しかもレコード番号をみると流行歌のヒット曲を制作している文芸部からではなく、ラジオ体操や童謡、唱歌といった教育用のレコードを主に扱うセクションから発売されていたことがわかった。



三橋美智也の独走だと楽観視していたキングは、最初の時点で大きく出遅れたことから、ジャケットをカラーにして文字を横書きにしたデザインに差し替えているが、ここでも友竹正則の「海をこえて友よきたれ」がA面だった。

その10ヶ月後、1964年の4月になってからA面になった「東京五輪音頭」が、「おんな船頭唄」や「リンゴ村から」、「哀愁列車」、「おさらば東京」、「星屑の町」などのヒット曲を制作してきた本来の文芸部から発売された。
そこではいかにも”音頭もの”らしく、祭りを思わせるカラー写真の明るいジャケットになった。

しかし、そのときにはすでに三波春夫との勝負付けは終わっていて、もはや後の祭りだったのである。



そもそも1963(昭和38)年6月23日のオリンピック・デーで、三橋美智也によって初めて披露された「東京五輪音頭」を、最初からA面として発売したのは東芝の坂本九と、テイチクの三波春夫だけだった。

コロムビアの北島三郎・畠山みどり、ポリドールの大木伸夫・司富子、ビクターのつくば兄弟・神楽坂浮子、そして本命視されていたキングの三橋美智也のレコードでも、「海をこえて友よきたれ」がA面になったのである。

そこには歌手ではなくレコード会社間における様々な思惑や事情があり、それがヒットし始めた三波春夫のヴァージョンを独走させる要因になっていった。

NHKが制定した「海をこえて友よきたれ」はオリンピックのために書き下ろされた愛唱歌で、「東京五輪音頭」と同じように公式ソングだった。
キング専属の飯田三郎が作曲したが、古賀政男と同様に専属の縛りをなくして各社に開放された。

「海をこえて友よきたれ」をA面にしたコロムビアの場合、その年の紅白歌合戦にも選ばれた青春歌手の高石かつ枝が、藤原良とデュエットしている。

北島三郎と畠山みどりが唄った「東京五輪音頭」では、紅白歌合戦のトリを務める三橋美智也や、人気絶頂だった坂本九には対抗できないとの判断だったのかもしれない。

それよりも若者に人気があった高石かつ枝の「海をこえて友よきたれ」の方に、明らかにプロモーションの力が入っていたという印象があった。



それにしても何よりも大きかったのは、三橋美智也自身のコンディションが良くなかったことだった。
というのも前年の後半から喉の具合が芳しくなく、最大の魅力だった豊かな美声と艶のある高音が、しばしば不安定になってきていたのだ。

そうした異変を察知して、歌手生命の危機に瀕しているのではないかとまで心配する新聞記者もいたほどだ。

三橋美智也もキングもその異変は自覚していて、それまでのような過密スケジュールを避けて、できるだけ静養する方向に切り替えていった。

そのためにキャンペーン・ソングで盛り上げたいNHKの歌謡番組に出演するタイミングを失い、集中的にプロモーションしていた三波春夫との差は開く一方になったのである。


(以下、④に続く)

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