「東京五輪音頭」のヒットをめぐる勝者と敗者 ② 決定的だったのは歌に向かうモチベーション
作曲者である古賀政男の意向を汲んで主要レコード6社の競作となった「東京五輪音頭」だったが、下馬評では民謡出身の人気歌手だった三橋美智也が本命であった。 老若男女に人気があった22歳のポップスシンガーの坂本九と一騎打ちになるか、そこに浪曲師出身の三波春夫がどこまでくい込めるのか、などと予想されていた。...
View Article追悼 ドクター・ジョン~多様な文化が混じりあったアメリカ南部のソウルフードと名盤『ガンボ』の関係
ガンボという料理はアメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸一帯に広く浸透しているが、ニューオーリンズなどではライブやお祭りの屋台には必ず登場するソウルフードだ。 だしのよく出たスープに野菜を入れて煮込み、それをライスにかけて食するという基本の定義はあっても、ありあわせの食材でつくった庶民の食べ物なので、定まったレシピというものはない。...
View Article勝手に売れたわけではなかったサザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」①
NHK-FMのラジオ番組『甲斐よしひろの若いこだま』では1978年の6月9日に「ロックの日」と称して、「夏よ来い!ロックンロール大特集」がオンエアされた。 甲斐バンドの「狂った夜」を皮切りに、サディスティック・ミカ・バンドの「ダンス・ハ・スンダ」、内田裕也のアルバム『ア・ドッグ・ランズ』、四人囃子の「空と雲」、パンタ(PANT)の「屋根の上の猫」などが選曲されていた。...
View Articleちあきなおみのヴォーカルと服部隆之のアレンジで蘇った中村八大の代表作「黄昏のビギン」
「黄昏のビギン」の作詞者としてクレジットされている永六輔が、「実はあの歌、八大さんがつくったんです、作詞も、作曲も」と意外な発言を口にしたのは2012年のことだった。 雑誌『中央公論』の企画で昭和の歌謡曲ついて対談させていただくことになったとき、お会いしてすぐに永さんはたたみかけるようにこう仰って、その後でニッコリ笑ったのである。 僕じゃないんです。でも八大さんが「君にしておくね」って言って。...
View Article「東京五輪音頭」のヒットをめぐる勝者と敗者 ③ レコード会社によるプロモーションの温度差
前回の記事から、三波春夫の「東京五輪音頭」がなぜ大ヒットしたのか、その要因はおおむね理解できた。 だが結果的に敗者となった三橋美智也の極端な不振に関しては、それほど単純な話ではなかったのかもしれないと思い始めた。 きっかけはディスコグラフィーを見ていて気付いた見慣れないレコード番号への疑問と、翌年の春になってからジャケットをカラーにして、あたためてA面で再発売されたことの不自然さだった。...
View Articleレコーディング中だったアヴィーチー(Avicii)が急に演奏した「上を向いて歩こう」のメロディ
スウェーデン出身のアヴィーチー(Avicii)ことティム・バークリングは、19歳で世界のトップDJとして認められて、EDMのムーブメントを牽引してきた。 ショービジネスの世界でスターの座を維持しながら、表現者として新しい作品を生み出していたが、たえまない緊張を余儀なくされたことで、精神的にはかなりきつい日々が続いていたという。...
View Articleある夜、夢のなかで聴こえていた曲
ボノが27歳の誕生日を迎えてから1か月が過ぎた1987年6月のことだった。 3月に発表された新作『ヨシュア・トゥリー(The Joshua Tree)』は、U2にとって5枚目のアルバムだったが、ターニングポイントとなった記念碑的な作品である。 サウンド面やメッセージ性において著しい成長を遂げたことによって、アルバムは発表と同時に各方面から絶賛されていた。...
View Articleちあきなおみが発表した最後のオリジナル曲となった「紅い花」
ガンで入院していた夫の瀬川鍈治と死別したのをきっかけに、ちあきなおみが表舞台から消えてしまったのは1992年の9月のことだ。 もっとも良い理解者で、しかもプロデューサーでもあった夫の死のショックは大きかった。 関係者に伝えられたちあきなおみからのメッセージは下記の文言で、それを最後に彼女は一切の芸能活動を休止した。...
View Articleボブ・ディランの「朝日のあたる家」から40年、ちあきなおみのライブ音源が発見された……
イギリスのアニマルズが1964年にロック・ヴァ―ジョンでカヴァーして、全米1位の大ヒットとなって世界中に広まったのが、「朝日のあたる家(House Of The Rising Sun)」である。 原曲はアメリカのトラディッショナル(伝承歌)で、ウディ・ガスリーやレッドベリーらフォーク・シンガーによって歌い継がれてきた。...
View Article「東京五輪音頭」のヒットをめぐる勝者と敗者 ④ 明快に分かれたその後の運命
本命と見られていた三橋美智也の「東京五輪音頭」が大きく出遅れたことで、一気に台頭してきたテイチクの三波春夫のヴァージョンが、最初にヒットし始めた。 そのことによって若者たちに人気があった東芝の坂本九と、一騎打ちの競争になると思われたのに、実際にはそうならなかった。 それは誰にも予測できなかった運命的な出来事が、いくつも重なり合った結果である。...
View Articleバハマ諸島の伝承歌だった「スループ・ジョンB」はビーチボーイズによってスタンダードになった
フォークソングのコレクターでもあった詩人で作家のカール・サンドバーグと、フォークやブルースなどを問わずヨーロッパやカリブ海でも録音をしたアラン・ロマックスによって、1920年代に見出された「スループオン・ジョンB」は、バハマ諸島に広まっていた古くからの伝承歌だったという。 それが1940年代から1960年代前半に起こったフォークリバイバル(folk music...
View Article早く前を歩いていたのに遅咲きになり、そこから成功したシンディ・ローパー
シンディ・ローパーは1953年6月22日、ニューヨークのブルックリンに生まれた都会っ子だった。 だが5歳の時に両親が離婚したことで、母親や姉、弟たちと郊外のクィーンズに移り住んだ。 そこからは環境の変化になじめなくなり、いつもどこか場違いな感じでちょっと調子が外れて、まわりから浮いていたので変な視線を浴びてきた。 そうした子供時代から思春期を経て、家を出て自立したのは17歳の時である。...
View Articleライブで唄ってみて歌の本質に気づいた美空ひばりが名曲に育てた「悲しい酒」
テレビドラマの主題歌だった美空ひばりの「柔」は1964年11月20日に発売されると、翌年にかけて大ヒットし第7回日本レコード大賞ではグランプリに選ばれた。 そして翌66年には生涯を通しての代表曲となる「悲しい酒」が、シングル盤として6月10日発売になった。 だがこの歌はそのまま、スムーズにヒットしたわけではない。...
View Articleマイケル・ジャクソンの命日~残された率直な言葉に向き合ってみてはどうだろうか
没後10年、亡くなった後も多くのファンを魅了するマイケル・ジャクソン。 彼は常に自分自身の経験を踏まえながら、人権の平等や人種差別の撤廃を作品を通して訴え続けた。 キング・オブ・ポップと呼ばれた不世出のスーパースターが残した言葉には、世界中の為政者たちにも届いてほしいと思うことがある。...
View Article追悼・千家和也~14歳にして「青い果実」を唄った山口百恵を新しい表現へと導いた作詞家
1973年9月1日に発売された山口百恵のセカンド・シングル「青い果実」が、一気にベストテンを狙えるほどのヒットになったのは、サビから始まる楽曲の歌詞とリズム、メロディとヴォーカルのマッチングがよく、アイドルものにしてはロックのビート感が感じられたからだろう。 それとともに大きかったのが、控えめで清楚だった本人のイメージとは対照的に、大胆な言葉づかいによる歌詞のインパクトだ。...
View Article大日本愛国党を率いる右翼の赤尾敏から佐藤栄作首相までが口を挟んできたビートルズの日本武道館公演
ビートルズの公演が正式発表されたとき、マスコミが騒ぐと同時に保守世論からも反対論が吹き出した。 大日本愛国党を率いる右翼の赤尾敏はさっそく、「Beatles Go Home」の横断幕を掲げて、数寄屋橋で街頭演説を行った。 政治評論家の細川隆元はTBSテレビの『時事放談』の中で、経済評論家の小汀利得を相手に「乞食芸人に武道館を使用させるな!」と放言し、マスコミがその騒ぎを拡散させた。...
View Article追悼・千家和也~15歳にして山口百恵が独自の表現に至った「ひと夏の経験」
デビュー作の「としごろ」から山口百恵のシングルを作曲してきた都倉俊一は、「青い果実」に続いて「禁じられた遊び」、「春風のいたずら」と、作詞家の千家和也とのコンビで順調にヒット曲を出していた。 ところが「青い果実」から半年が過ぎる頃になると、何かがもの足りないと感じるようになったという。 そうした意識は作曲家としての個人的な思いではなく、スタッフたちの間でも共通していたらしい。...
View Article吉田拓郎はジョン・レノンへのファンレターの最後をこうしめくくった――「いつか僕たちがビートルズを追い越します」
吉田拓郎がビートルズを知ったのは1964年の初めのことで、日本でレコードが発売になる直前だった。 当時は高校2年で広島に住んでいたのだが、学校から帰ってくると夕方5時から始まるラジオ番組を聞くのが日課になっていた。 アメリカの音楽誌「ビルボード」のランキングを紹介する「ビルボードTOP40」が、岩国の米軍キャンプ向けのFENから英語で流れていたのである。...
View Articleビートルズの武道館公演を客席で観ていた次世代のスターとシンガー・ソングライター
京都のバンドだったザ・タイガースは地元のファンが手に入れてくれたチケットをプレゼントされて、ビートルズ来日公演を東京の日本武道館まで沢田研二、岸部一徳、森本タロー、加橋かつみ、瞳みのるの全員で観に行った。 そしてその直後に渡辺プロダクションと契約を結び、プロとしてレコード・デビューすることが決まった。...
View Articleビートルズ来日公演~観客席の少年少女たちには確かに届いていた音楽
ファン待望のビートルズ来日公演の初日、コンサートは6月30日午後7時35分に始まり、8時5分に終了した。 ビートルズはアンコールもなく、楽屋口に用意された車で武道館を後にした。 終演後、観客席に残った女の子たちはみんな泣いていた。 少年たちはみんな茫然としていた。 全11曲、わずか30分のコンサートの演奏曲目は以下の通りだった。 ①Rock And Roll Music ②She’s A...
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