ビートルズの原点となったデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」から始まった輝かしい歴史
ビートルズのメンバーたちはみんな、第二次世界大戦の戦火の下で生まれ育っている。 ジョン・レノンとリンゴ・スターが1940年、ポール・マッカートニーが1942年、ジョージ・ハリスンが1943年と、いずれも戦時中にこの世に生をうけたのだ。 彼らは戦争を知っている子どもたちであり、愛をほしがっている子どもたちでもあった。...
View Article忌野清志郎が歌って日本のスタンダードになった「デイドリーム・ビリーバー」と日本語詞
1964年の初めからビートルズが全米を制覇して空前のブームを巻き起こしたことに対抗して、アメリカのエンターテインメント業界が用意したのがモンキーズだった。 ビートルズのようなバンド・スタイルのロック・グループが歌うポップスをテレビ番組と融合させて、新しいスターを作ろうとオーディションで選出された4人からなるモンキーズは、1966年8月に「恋の終列車 」をリリースしてデビューした。...
View Articleマイケル・ジャクソンからジョニー・キャッシュまで、クロアチア少年の心を捉えた歌
2011年の1月、動画サイトに投稿された1本の動画から、国境も世代も超えるネット時代における音楽の新しい物語が始まった。 イギリスの大学でクラシックを学んだ二人の若いチェリスト、ルカ・スーリッチとステファン・ハウザーが、マイケル・ジャクソンのヒット曲「スムーズ・クリミナル」をカバーした動画は、選曲やアレンジの意外性とテクニックなどが評判を呼び、半年で500万回もの再生回数を記録したのだ。...
View Article「カンドレ・マンドレ」から「夢の中へ」と進化した井上陽水のソングライティング
1969年にアンドレ・カンドレという名前で登場した井上陽水だが、デビュー曲は「カンドレ・マンドレ」というタイトルだった。 発表されたその当時も今も変な芸名だったし、曲のタイトルもかなり変な感じがした。 最近になって本人は「若気の至りっていうのは怖いよね(笑)」と話しているが、そのどこか普通ではないネーミングには、井上陽水という表現者が持っている美意識と恥じらいが潜んでいる。...
View Article吉田拓郎と岡本おさみとの闘争から生まれた「望みを捨てろ」~〈吐きすて〉の歌の系譜⑧
岡本おさみとの協同によるソング・ライティングについて、吉田拓郎は「あの頃いつも俺は不愉快だった(笑)」と述べていた。 ここでいう「あの頃」とは、岡本とのコンビを組んでつくった「旅の宿」がヒットした1972年から、森進一に書き下ろした「襟裳岬」が日本レコード大賞を受賞することになった1974年頃までのことを指している。...
View Articleカルメン・マキ&OZのアルバムに刻み込まれた時代の空気と諦念~春日博文の静かなる復活④
1975年から76年にかけてカルメン・マキ&OZが発表した2枚のオリジナル・アルバムを聴くと、それぞれの時代の空気がレコード盤の溝に刻み込まれているように感じられる。 すべてがいつのまにか負の方向に向かい始めていたのに、その流れに気づかないまま無力感に包まれていった日本と日本人ーー。...
View Article「ルージュの伝言」〜エリザベス・テーラーが主演した映画の残像からユーミンがイメージした物語
ユーミンこと松任谷由実は3枚目のアルバム『コバルト・アワー』について、それまでとは発想を変えて作ったと語っている。 私小説というコンセプトに基づいていて作られたファーストの『ひこうき雲』と、セカンドの『MISSLIM』はもう二度とできないという意味からしても、まぎれもなく私小説と呼べる作品だった。...
View Article「翳りゆく部屋」~ユーミンが好きだったというプロコル・ハルムのアルバム『ソルティドッグ』との深いつながり
「翳りゆく部屋」はユーミンが結婚して松任谷由実になる前、荒井由実の名義で1976年3月5日に発売された最後のシングルだ。 ただし本人の弁によればもっとずっと前に、プロコル・ハルムのアルバムを聴き込んでいって書いた曲だったという。 アルバム『ひこうき雲』を発表した頃には、すでに「マホガニーの部屋」という原型ができていたらしい。...
View Article暗黒時代のRCサクセションに活力を与えた若きチンピラ・プロデューサー~春日博文の静かなる復活⑤
写真・井出情児 カルメン・マキ&OZは1976年7月に発表したロスアンゼルス録音のセカンド・アルバム『閉ざされた町』を出したが、原盤を制作したキティ・レーベルや発売元のポリドール・レコードが期待していたにもかかわらず、残念ながら目標としていた売上には及ばない結果に終わった。...
View Article「スーパー中学生だったんです」というユーミンが作詞作曲した「恋のスーパーパラシューター」
東京・八王子の「荒井呉服店」の次女として生まれた荒井由実(ユーミン)は、音楽が大好きな赤ちゃんだったという。 まだおむつを付けている頃からマンボを踊って可愛がられ、小学生になってからはザ・ピーナッツや坂本九などのポップスを歌ってまわりを喜ばせた。 そしてピアノと三味線を習い始めたことから、いっそう音楽に親しむようになっていった。...
View Article追悼・ジェフ・エメリック~ビートルズが求めていたサウンドを作ったのは19歳のエンジニアだった
ビートルズの最初のアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』から『ラバー・ソウル』までを手がけてきたのは、英国EMIの技術部門に勤務するエンジニアのノーマン・スミスだ。 そしてノーマンが1966年に昇進が決まってレコーディング現場を離れることになった時、後任として白羽の矢が立ったのはまだ19歳のジェフ・エメリックである。...
View Article唐十郎が率いる状況劇場の芝居に新宿ピットインで即興による音楽をつけていた山下洋輔
写真・井出情児 1960年代から70年代にかけての新宿はあらゆる文化が混在し、それらがあちらこちらで接触しては反応を起こすことによって、カオス的なエネルギーがほとばしっている状態にあった。...
View Article「やさしさに包まれたなら」〜うたづくりにおける特別な瞬間について語ったユーミンと井上陽水
ユーミンが会いたかったという著名人との対話をまとめた本の「才輝礼賛38のyumiyoriな話」(松任谷由実:著 中央公論新社)には、ほぼ同じ時代を生きてきたシンガー・ソングライターの井上陽水が、最後のひとりとして登場してくる。 対談のなかでは冒頭にユーミンがデビューした当時、マスコミで「女(井上)陽水」とか、「女(吉田)拓郎」という呼ばれ方をしていたことについて、一言こう述べていた。 松任谷...
View Article来日公演でジーン・ヴィンセントが歌った「オーバー・ザ・レインボウ」の静かな衝撃
映画『女はそれを我慢できない』が1957年に日本で公開された時、たくさんの若者たちの目を釘付けにしたのは、動くロックンロールの強烈な衝撃だった。 なかでも評判になったのが、ジーン・ヴィンセントとブルー・キャップスのパフォーマンスだ。 日本のロカビリアンたちは映画『女はそれを我慢できない』の演奏シーンを真似るだけでなく、ファッションもこぞって取り入れている。...
View Article「私のフランソワーズ」~思春期のユーミンにとってフランスの香りだったというフランソワーズ・アルディ
1960年代から70年代にかけて、洋楽のヒット曲を作り出すのに貢献していたのはラジオだった。 ただし歌や音楽はラジオからそのままリスナー伝わるが、アーティストの魅力そのものが伝わるわけではない。 フランソワーズ・アルディは18歳の時に自分で作詞作曲した「男の子と女の子」でデビューし、歌手のみならずモデルや女優としても活躍した、...
View Articleちあきなおみの「ねえ あんた」が生まれるアイデアがひらめいた熱海温泉の一夜
ちあきなおみのリサイタルを1ヵ月後に控えて新曲に関するプランを練っていたTBSの砂田実は、昔からの顔なじみだったバンドの面々と熱海に出かける機会があった。 遅い夕食が終わったところでリーダーから呼ばれて、「砂さん、ちょっとつきあってくれる?」と誘われた。 連れ立って外に出るとリーダーは勝手知ったるわが町のように、人通りの少なくなった夜の温泉街を堂々と歩いていく。...
View Articleミシェル・ポルナレフの「愛の休日」で衝撃を受けたユーミンが身につけた作詞の視点
日本でミシェル・ポルナレフが有名になったのは1971年に発売した「シェリーに口づけ」が、歌謡曲に混じってオリコンのベストテンに入る大ヒットになったからだ。 さらに1972年に発売された「愛の休日」が「シェリーに口づけ」を上回るヒットを記録し、アマチュア時代のユーミン(荒井由実)にも大きな影響を与えたという。...
View Article美術の仕事か小説か、将来の進路に悩んでいた原田マハに聞こえてきたユーミンの「春よ、来い」
原田マハがたまたま知り合いになった出版社の編集者から、「共同執筆で働く女性のインタビュー集を作らないか」と持ちかけられたのは2004年のことだった。 その頃はなんとなく文章を書くことになれてきて、「ひょっとしてそろそろ小説書いてもいいかもな…」と漠然と考えていた時期であったという。...
View Articleプロコル・ハルムの「ソルティ・ドッグ」と、もとはイギリス生まれだったカクテルの関わり
プロコルハルムの代表曲といえば「青い影」だが、「ソルティ・ドッグ」という曲も代表曲としてあげられる1曲だ。 オルガンによる宗教音楽のようなサウンドが印象的な「青い影」は、荘厳な教会を思わせるところから室内楽のルーツを強く感じさせる。 それに比べると「ソルティ・ドッグ」はイントロが始まる前に、SEとしてまずかもめの啼き声が聞こえてきて、目の前に海が広がっていくイメージが醸し出される。...
View Article村井邦彦の「LA日記」は面白いだけでなく過去に学ばずして創造はないと教えてくれる
村井邦彦は慶応大学を卒業して間もない23歳の時に、新しいセンスを持つ作曲家として音楽シーンに登場して以来、またたくまにヒットメーカーとして名をつらねた。 それから1年と少し後に、やはりヒットメーカーとして活躍していた作詞家の山上路夫と組んで、自らの音楽出版社「アルファミュージック」をつくり、ソングライター主導による作品づくりを始めている。...
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