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Channel: 佐藤 剛 – TAP the POP
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エルヴィス・プレスリー27歳~決定的なものが失われたことによってなしくずしに始まった雲上人伝説

エルヴィス・プレスリーは陸軍に徴兵された1958年3月24日から2年間、実質的に音楽活動が出来ない期間を過ごしている。 そして除隊した後は以前の生活に戻ることが出来たのだったが、その間に実は決定的なものが失われてしまった。 最愛の母のグラディスが病に倒れて、1958年8月14日に亡くなったのである。 まだ46歳、早すぎる死だった。...

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ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」の作者とされるターターと偶然に出会って撮影していた写真家

歴史とともにある時代の音楽を封印したという意味で、写真家の石田昌隆が1982年の夏に53日間滞在したジャマイカを記録した『JAMAICA 1982』は、写真集にとどまらない普遍的な価値を持つ書物になっている。 それは当時の音楽シーンのリアルな空気感だけではなく、現場で体験したものにしか書くことが出来ない文章がいくつも掲載されているからだ。...

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「監獄ロック」~最盛期に最高の映画が公開されなかったエルヴィスと日本の不幸なめぐり合わせ

1957年秋に公開されたエルヴィス・プレスリーが主演する映画『監獄ロック』は、彼が出演した31本の作品の中でも爆発的な人気を博したことや、生き生きとした歌と踊りの場面があったことから傑作だという声が多い。 テネシー州メンフィスにある映画館の案内係として週給12.75ドルという低賃金で働く若者のヴィンスは、いつの日か映画スターになる夢を見ていたが、酒場でのトラブルで誤って相手を殴り殺してしまう。...

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細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道

松本隆がプロのミュージシャンとして音楽活動を始めたのは1969年の2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」にドラマーとして加入したときからである。 アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松本はベースがやめた際に、立教大学にベースのうまい人がいると聞いてメンバー補充のために、直に電話をかけて細野に面会を申し込んだ。...

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はっぴいえんどの「夏なんです」は日本語の歌詞にこだわった松本隆による“ラブソング”

立教大学の学生だった細野晴臣の家に、慶應大学に通う松本隆が来て、ロックに日本語は乗るのだろうかと、アルバム『ジャックスの世界』などを参考にしながら、勉強会に取り組んでいたのは1968年秋のことだ。 1960年代末期から70年代の初頭にかけて、日本語のロックが生まれて来た背景には、欧米のロックに刺激を受けて始まったグループ・サウンズへの失望と反発があった。...

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追悼・浅利慶太~NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち

1959年にたった一人でヨーロッパに向かった小澤征爾は第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、翌年はカラヤン国際指揮者コンクールでも第1位となった。 そしてカラヤンに師事した後、1961年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に抜擢された。 日本の若者が世界のクラシック音楽の檜舞台で活躍し始めたことは、音楽ファンや関係者だけでなく社会的な関心も集めることになる。...

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「なあ、泣くな、泣かないでくれ」とボブ・マーリーが祈る「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のライブ録音

1975年の6月から始まった初のワールド・ツアーで、ボブ・マーリー&ウェイラーズは北米各地にある400人キャパのクラブを回って公演をした。 ところが6月18日にニューヨークのセントラルパークで開かれたサマーフェスティバルには、なんと1万5000人もの観衆が集まってきた。...

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アメリカン・ポップスの黄金時代を牽引するリーバー&ストーラーが脚光を浴びた「ハウンド・ドッグ」

アメリカン・ポップスの黄金時代を牽引したジョニー・リーバー&マーク・ストーラーが書いた最初のナンバーワン・ヒットは、ゆったりしたルンバのリズムの乗せたシンプルなブルースだったので、楽曲を作るのには15分もかからなかったという。...

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追悼・常田富士男~反体制ミュージカル『真田風雲録』で注目を集めて、「私のビートルズ」をレコードに吹き込んだ個性派俳優

1937年1月30日に長野県で生まれた常田富士男は、6歳のときに父親を戦争でなくした。 それから各地を転々とした後、小学3年時より母の郷里となる熊本県阿蘇郡南小国町で育った。 わずか18軒しか民家がない小さな村で家族は母親と姉弟が7人もいたために、食い扶持を減らす目的で幼い頃から近所の農家に手伝いに行って、炭焼や椎茸作りをして働いていた。...

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バンド名だけでなく方向性やステージングの面でもコースターズの影響を受けていたチェッカーズ

コミカルなヴォーカル・スタイルで活躍したコースターズは、1955年の終わりにアメリカの西海岸のロスアンゼルスで結成された黒人のR&Bグループだ。 ユダヤ系白人ながらも黒人のためにR&Bヴを書いていたソングライター、ジェリー・リーバー(曲)&マイク・ストーラー(詩)はプロデューサーでもあったので、自分たちの楽曲を歌ってくれる理想的なメンバーを探していて、前身となるロビンズに出会った。...

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「涙のリクエスト」は「夏のクラクション」と同じDNAを持って別々の惑星で生まれた双生児

作詞家の売野雅勇が1983年9月21日にデビューする予定だったバンド、チェッカーズのために「涙のリクエスト」を書いたのは4月の中旬であったという。 それは奇しくも稲垣潤一に「夏のクラクション」を書き上げた翌日のことで、この2曲の関連について売野は、著書「砂の果実」でこう述べている。 誰が読んでも絶対に気がつかない自信があるけれど、このふたつの曲は、同じDNAを持つ、別々の惑星で生まれた双生児だ。...

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こんなへたくそな歌手に、これほどつまらん歌詞をつけられてリメイクされていると知ったら?

バリー・マクガイアが発表した「明日なき世界(Eve of Destruction)」は、1965年9月25日にシングル・レコードが全米チャートの1位になった。 曲を書いたのはP.F.スローンという10代の若者で、早くから卓越した作詞・作曲のセンスを買われて、大手の音楽出版社と契約してソングライター兼スタジオ・ミュージシャンとして働いていた。...

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日本のロカビリー・ブームにタイムスリップするかのような七五調の「ギザギザハートの子守唄」

チェッカーズは1980年のバンド結成以来、地元の久留米で着実に人気を獲得し、ヤマハが主催するアマチュア・バンドのライト・ミュージック・コンテスト(LMC)の全国大会でジュニア部門で優勝して認められた。 そもそもはメンバーの何人かが高校3年生になって、卒業して就職したらこれまでのような精力的な音楽活動ができなくなるだろうということで、思い出づくりのような感覚でLMCにエントリーしたのだという。...

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大滝詠一が大胆な日本語ロックへのアプローチに挑んだはっぴいえんどの「颱風」とその後

日本の夏といえば良くも悪くも、台風とは切っても切れないつながりがある。 そうした自然現象を題材にして日本語によるロックへのアプローチに挑んだのが、はっぴいえんど時代の大滝詠一であった。 四辺は俄かにかき曇り 窓の簾を洌たい風が ぐらぐらゆさぶる 正午のてれびじょんの天気予報が 台風第二十三号の 接近を知らせる 空を鼠色の雲が 迅く迅く迅く迅くはしり 風は どんどんどんどんふいてくる 台風 台風...

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林美雄というアナウンサーに発見された「八月の濡れた砂」、主題歌を歌ってカリスマになった石川セリ

究極の音楽映画ともいえる『八月の濡れた砂』だが、リアルタイムで公開された1971年の8月にはまったくといっていいくらい、観客が劇場にやって来なかったのは事実である。 しかし映画マニアだった一部の大学生たちの間で、口コミで次第に評判が高まっていったのは公開が終わって、2番館で上映された秋頃からのことだった。...

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濃霧に包まれた中でピンク・フロイドが「原子心母」を演奏した箱根アフロディーテ

”ロックは英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか”という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、”ほんもののロック”を目指したロック・コンサートが、様々な会場で行われていた。 そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。...

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黒柳徹子~私達は手をとりあって、よくわからない〈テレビ〉という暗闇の中を進んでいった

黒柳徹子には小学校のときから、なりたいものがいろいろあった。バレリーナ、幼稚園の保母さん、従軍看護婦、スパイ、競馬の騎手‥‥。 だが香蘭女学校を卒業後にはオペラ歌手になると、きちんと目標をさだめて東洋音楽大学声楽科へ入学した。...

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安井かずみや平尾昌晃を通じて歌謡曲に影響を与えたエルヴィスと「ハートブレイク・ホテル」

エルヴィス・プレスリーが世界的に人気歌手の地位を確立したのは、1956年にアメリカだけでなくヨーロッパや日本でも大ヒットした 「ハート・ブレイク・ホテル」がヒットしてからだ。 エルヴィスにとって初のビルボード・チャート1位になり、売り上げも200万枚を突破して初のゴールドレコードをもたらした。...

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中島みゆきが「あいつも あたしも 好きだった」と歌詞に取り上げた「アローン・アゲイン」

「アローン・アゲイン (ナチュラリー) 」はアイルランド人のシンガーソングライター、ギルバート・オサリヴァンの楽曲で1972年にリリースされると、口ずさみやすいメロディーで世界的な大ヒットになった。 アメリカのBillboard Hot 100のシングルチャートでは、7月から9月にかけて合計で6週も1位の座にあった。...

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唄を忘れたかなりやだった27歳の西條八十は、忘れた唄を思ひだして詩人となった

石鹸製造業で財を成した父親が亡くなったとき、西條家の全財産を相続したのは17歳の西條八十で、まだ早稲田中学に通う学生だった。 三男だったにもかかわらず家督相続人に任命されたのは、道楽息子の長男がまったく信用がおけなかったからである。 そんな兄が若い芸者と駆け落ちして失踪してしまうのは、明治最後の年のことであった。...

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